藤原不比等「大宝律令の功労者は女性関係で力を得た!?」の画像
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 藤原不比等は、日本最古の法律・大宝律令制定の中心人物であり、右大臣として平城京(奈良市)遷都を主導。彼が「古代国家ニッポン」を創った男の一人といわれるゆえんだ。

 その不比等は、斉明天皇四年(658年)に藤原鎌足(前号で詳述)の次男として生まれた。しかし、彼が史料にその名を現すのは三二歳のとき。『日本書紀』によると、持統天皇三年(689年)二月十四日に任命された判事(裁判官)の一人に「藤原朝臣史」の名がみえる。

「史」で「ふひと」と読み、もともとの彼の名が史であったことのほか、三〇過ぎになるまで世に埋もれた存在だった事実が浮かび上がる。つまり、父・鎌足の政治的地盤を引き継いだとはいえず、いわば、「二代目」の恩恵にほとんど預かっていないのだ。三二歳でようやく裁判官になった彼が、どうやって朝廷で力をつけていったのだろうか。

 まず彼が天智天皇の隠し子だという説がある。不比等の母、車持国子君の娘・与志古は、天智の胤を宿した後に鎌足に下げ渡されたという。『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する車持皇子のモデルが不比等だとされるのは、この天皇落胤説に基づく。しかし、これを史実とするだけの確実な証拠がない。

 次は、県犬養橘宿禰三千代を娶ったことによる妻のおかげ説。彼女は、天武天皇から持統・文武・元明の歴代天皇に女官として仕え、天皇家の信任が厚かった。確かに彼は娘の宮子を文武天皇の夫人 (妻)とすることに成功し、その宮子が首皇子(皇太子=のちの聖武天皇)を産んで、不比等はその外祖父となった。また、もう一人の娘( 安宿媛)が、その聖武天皇に嫁ぎ、臣下の娘で初めて皇后になった。こうした婚姻戦略に妻・三千代のコネが大きくものを言ったのは間違いない。

 さらに、女帝・持統天皇との密約説も見逃せない。彼女は天武の皇后で夫の死後、息子の草壁皇子に皇位を継がせようとしたが、皇子が若くして亡くなったため、中継ぎとして自ら即位し、孫の文武天皇にバトンをつないだ。その企てに不比等が協力したという。こちらは証拠もある。

「正倉院宝物」の黒くろ作づくりの懸かけ佩はきの刀た ちの由緒として「草壁皇子が常に身に着けていたものだが、それを不比等が賜り、文武が即位した際に不比等があらためて天皇に献上した」とある。

 これすなわち、不比等が草壁から文武へバトンを渡す役割を担っていたことを示すものだ。当然、そのバックには持統天皇がいた。

 落胤説はないとしても、こうして妻や娘や女帝との“女性関係”をフルに活用して右大臣まで昇りつめたわけだが、彼に政治的力量がなければ女性たちの信頼を勝ち得なかった。よって、不比等こそが藤原摂関家の事実上の始祖といえる。

跡部蛮(あとべ・ばん)歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。

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