"赤信号、みんなで渡れば怖くない"

"狭い日本、そんなに急げば早く着く"

テンポよく繰り出される毒舌ジョークで、漫才ブームの頂点を極めたコンビ・ツービートが復活する。

「たけしさんの事務所・オフィス北野に、ビートきよしさんが所属することになったんです。ツービートの二人はかつて、老舗のお笑い系事務所の太田プロ所属でしたが、1988年にたけしさんがオフィス北野を創って独立。その頃はすでに、たけしさんはピンの仕事ばかりで、ツービートは事実上活動していませんでした。その少し前に、きよしさんも太田プロを辞めて、小さな事務所に入り、芸能活動を続けていました。それがこの4月から、たけしさんの事務所所属になったんです。両者が一緒になるのは、実に29年ぶりのこと」(芸能関係者)

たけしときよしは、浅草のストリップ小屋・フランス座(現・浅草東洋館)の舞台から、芸能活動をスタートさせた。

「当時のフランス座はストリップ小屋でしたが、幕間の出し物であるコントにも定評があった。萩本欽一、東八郎、由利徹など錚々たるコメディアンを輩出している。渥美清もフランス座出身。由緒正しい"笑芸人の虎の穴"だった。兼子(きよしの本名)やタケちゃんが修行していた時代は、舞台芸人は流行らない時代だったけど、あの二人は"古き良き浅草芸人"の伝統を叩き込まれたはずだよ」(地元席亭の一人)

浅草で食うや食わずの苦楽を共にした二人だったが、「ツービートのよく喋るほう」(命名・高田文夫)は、あれよあれよと言う間に国民的スターに。

「ツービートのコンビ間格差と言ったらないですよ。年収10億円近く、芸能界でもトップクラスのギャラを稼ぐたけしさんに対し、きよしさんの仕事はラジオのパーソナリティや地方の講演会程度。事業にも手を出したが、お人好しがたたって借金を作る有様でした。それでも、そんなきよしさんをたけしさんは絶対に見捨てなかった。定期的に自分の番組にゲストで呼んだり、北野映画に出演させたり、ずっと気にかけていたんです」(前出・関係者)

だから、ツービートの解散も絶対に口にしなかった。

「3年前に、ベテランでも参加できる漫才の賞レース『THE MANZAI』が発表されたとき、たけしさんは"兼子と一緒にツービートで出てみたい"と言って、スタッフを驚かせたと言いますからね。生涯、現役漫才師、不動の相方はきよしさんというのが、本音なんですよ」(前同)

お前と会った仲見世の……たけしときよしには、切っても切れない絆があるようだ。

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