オレがまだ中学生くらいだったある日、家族でTVのニュースを見ていたら、父親が突然こんな質問をオレに投げかけたのです。
「今のこのニュースを、キミはどれくらい信用できるかな?」
ニュースの信用って?
そもそも「キミ」って誰? オレのこと? オレはアナタの子供なんですけど?
父親はオレのことをキミとか呼びます。
「ニュースなんだから、ホントのことなんじゃないんですか?」
ちなみに我が家では、父親と話すときビミョーな丁寧語で話す。強制されたわけではないが、気がつくと自然にそうなっていた。
「そうかもしれないが、そうじゃないかもしれないな」
「????」
「ニュースだからといって、本当かどうかは分からないよ。キミがあそこで実際に体験したワケじゃないだろ?」
「おっしゃるとおりです。体験したワケじゃありません」
「実際にキミが体験したとしても、それが本当かどうかは分からないものなんだよ」
「????実際に体験しても、ですか????」
「その時のキミの状態や気分によって、物事の捉え方は180度違ってしまう場合もあるからね。芥川の「藪の中」を読んだなら分かるだろ」
「う~ん、確かに」
「信用の割合なんてのは、文字で読んだものは1割、人から聞いたことは2割、それに写真や映像がついていたら3割、実際に自分が体験したとしても、たかだか4割程度ってところかな」
「実際に体験して4割は割に合わない気がするのは、オレだけでしょうか?」
父親は、キリスト教哲学を就学していて、地元の教会では長老をやっている。そういうわけで、物事の捕まえ方が独特なのでした。
とはいえ、それはその後のオレの考え方に、強烈な影響を及ぼしたのは言うまでもありません。

アイディアを創るということは、物事の本質を知ろうとするココロです。心意気のことなのです!
誰がなんと言おうが、そうに違いないのですが、文字数の都合上、理由は割愛させていただきます。
物事の本質を知ろうとするココロにとって、物事の信用性は重要です。
となると、父親の言う一番信用性の高い、4割の信用性のある「体験」が最良ということになります。
でも、いろんな体験が、そう簡単にできるワケないじゃないですか。時間にもお金にも限界があるから。
そうです! やっと本題ですね。
いろんな体験ができないのなら、いろんな本を読めばいいんです!

体験よりも経験
もう一つ方法を考えてみました。
どうせなら体験の精度を上げて、4割を5割とか6割にできないのだろうか? そうすれば、とっても効率がいいじゃないか!
北半球一の怠け者であるオレが考えそうなことだね。
どこかの難しい本に、こう書いてありました。
経験とは、「見て、聞いて、嗅いで、触って、感じて、読んで、書くことである」
これだっ!
 オレは思わず叫んでいました。
経験とは?
「若いうちに、いろんな経験をしてみたいっす。いろんな外国にも行ってみたいっすねぇ」
なんてセリフをオレが教えている生徒たちは、いかにも社会の正解かのように軽々しくほざきやがるのです。
確かに経験で沢山のことを学ぶことはできるでしょうけど、それは本質の一部分で、絶対でも全部でもない。
そういうのに限って、留学して帰ってくると外国にかぶれまくっちゃって「だいたい日本はさぁ」なんてセリフも例外なくほざいていただけます。
「恋愛ってさぁ、悲しいよねぇ」恋愛の意味さえ考えたことないクセに、たいした恋愛なんかしてないって「その仕事やってみたけど、自分の思ってた仕事じゃなかったし」仕事は妄想じゃねーんだよ。
こういうくだらない経験は、せっかくの向上心に有害以外のなにものでもありません。
カレ、カノジョの言葉にまったく信用性が無いのは、歴史、気候、生活習慣、文化、経済状態など、いろんな知識と照らし合わせてから思考したものだとは、到底思えないからでしょう。
全部体験するなんて到底無理だし、信用度は4割だし。
もうお分かりですね!
余計な経験するなっ!想像しろっ!本を読んで書け!
(書け!については、おいおい話していきましょう)

だってね、麻薬や殺人は、経験してみなきゃ分からないの?
そこまでバカ?

本日の新着記事を読む