2代目タイガーマスク、全日本プロレス社長、プロレス四天王としての活躍、そしてプロレスリング・ノア旗揚げ。「天才」という名を欲しいままにしつつ、2009年6月13日におきた「リング上での死」という形で、ファンに衝撃を与えたままこの世を去った三沢光晴。 先日発売された「俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)」では、彼と関係のあった10人のレスラーの証言を集め、プロレスラーとして、また男として、三沢がどんな人間だったのかに迫った。今回は、特別にその中から一部を抜粋して紹介したい。

「僕が三沢さんから学んだ一番のことは"覚悟"ですね。リングに上がったら、覚悟を決めて後悔がないように全力を尽くす」

小橋 僕と三沢さんの試合は、危険な技が多かったって言われますけど、僕は三沢さんに危ない技を出されても、「ひどいことすんな~」とか全然思わなかったですよ。僕もハーフネルソン(スープレックス)とかで、危険な角度で落としてるけど、三沢さんもそうは思ってなかったと思う。やっぱり、僕と三沢さんの試合というのは、三沢さんが正面から僕の思いを受け止めてくれたからこそ、「三沢VS小橋」として世間にアピールできたというか。三沢さんが、「俺は先輩だから」っていう態度で来て、僕の思いを正面から受け止めてくれなかったら、ああいう試合にはならなかったですよ。

──三沢さんは小橋さんより何年も先輩なのに、まったく同じ土俵に立って、正面から受けてたってましたもんね。

小橋 三沢さんは僕より7~8年先輩だったかな? それだけ上なのに僕の思いを受け止めてくれたから、ああいう「三沢VS小橋」っていう試合ができたし、思いを受け止めてくれなかったら、僕の思いが空回りするだけだった可能性だってありましたよ。そうしたら、僕だって「なんだよ?」ってなってただろうし。その後のノアもなかったと思いますから。

──試合がどんどんエスカレートしていったのは、やはりお二人が理想というものを、かなり高みに置いていたからなんですか?もっと上にいけるはずだっていう。

小橋 僕は本当の意味で"三沢VS小橋"っていうのが始まったのは、97年1月の大阪からだと思ってるですけど。そのあとのチャンピオンカーニバルで、初めて三沢さんに勝ったとき、30分1本勝負でやっても、1月の三冠戦を超えたいと思ったんですよ。

──当時の三冠戦といえば本当に特別な試合で。リーグ戦内の1試合とは重みが違う感じがしましたけど、それでも「三沢VS小橋」をやるからには、前の試合を超えたい、と。

小橋 リーグ戦内の1試合とか、そういうのは関係なかったですね。だから、「三沢小橋戦」というブランドを作るとか、そんな思いはなかったんですけど。毎試合毎試合「前回を超えたい」という思いでやってきたことが、ブランドになったんじゃないかと思うんです。

──四天王プロレスでいうと、小橋さんは川田さんとも、大阪府立で伝説になってる60分フルタイムの名勝負(95年1月19日)とかありますけど、三沢さんの試合とはやはり違いがありますか?

小橋 もちろん三沢さんは三沢さんですし、川田さんは川田さんで、田上さんは田上さんで素晴らしい個性がありますから、それは三沢さんとは違った厳しさ、激しさっていうのがありました。とくに川田さんっていうのは三沢さんの一つ歳下の後輩で、三沢さんに対する劣等感みたいな思いがあったと思うんですね。それと同時に、トップに立ちたいという思いも強かった。で、僕なんかはずいぶん後輩じゃないですか、だからとくに僕に対しては激しいライバル心を持っていたような気がするんですよ。

──ああ、なるほど! 同じようにトップを狙うライバルとして、後輩である小橋さんは絶対に叩いておかなきゃいけないってことで、厳しくきたわけですね。

小橋 そうなると、僕は叩かれてへこまされるわけにはいかないから、逆にどんどん攻めていって。また三沢さんとは違った意地の張り合い、闘いになりましたね。

──それこそ「きれいじゃない」闘いというか。三沢さんは同じ土俵で極限まで切磋琢磨する試合で。川田さんは、「俺は先輩だぞ」って感じで潰しにきて、小橋さんは潰されないためにガンガンいって、どちらも負けられない意地の張り合いになるという。意味合いの違う激しさがあったわけですね。

小橋 また田上明は僕の同期でしたから、彼とも絶対に負けたくないっていう意地の張り合いがありましたね。

──それぞれに少しずつ性質の違う"負けたくない"という思いがあるというか。だからこそ、極限の試合になっていって。小橋さんは三沢さんとの試合前、お母さんに「もし、俺に何かあっても三沢さんをうらまないでくれ」と言ったことがあるらしいですね?

小橋 電話で言いましたね。それが97年1月の大阪での試合前ですよ。それぐらいの覚悟、思いで挑んだ試合でしたね。

──どうしてそこまで?

小橋 僕はあの試合の前に、初めて三冠チャンピオンになっていたんですけど、「エースは三沢」って言われてたんですよ。それで僕は「チャンピオンになっても、まだエースにはなれないのか」っていう葛藤があって。会社的にも、チャンピオンは僕なのに、ポスターは三沢さんのほうがずっと大きく出てるんですよ(笑)。

──そういう現実があった、と。

小橋 それで、なんとか自分がチャンピオンなんだって認めさせたい思いがあって。また、それを認めさせるには、生半可な覚悟じゃ通じないだろうという思いがあったから、それが「もし俺に何かあっても……」っていう言葉につながったんだと思います。

──それ以降、三沢さんとやるときは、常にそういう覚悟を持っていたんですか?

小橋 持ってましたね。もちろん、三沢さんとの試合だけじゃなくて。常々、覚悟を決めて試合に挑んでましたね。そうじゃなきゃ、ウィリアムスのバックドロップなんて、それこそ事故が起こってしまいますよ。

──豊橋でのウィリアムス戦は、いまだに強烈に印象に残ってますよ。いまでも半年に1回は見返して、そのたびに「すげーっ!」って言ってます(笑)。でも、そういう命を削るような試合がエスカレートしていく中で、たとえば馬場さんとか先輩レスラーから、「おまえら、行き過ぎじゃないのか」みたいに言われたことはありませんでしたか?

小橋 行き過ぎとか、やりすぎと言われたことはないですね。確かに危ないですし、選手寿命を縮めるような試合だったと思いますけど。プロレスラーとして命を張ってリングに上がるわけだから、生半可な試合はしたくないんですよ。リングには、覚悟を決めて上がらないと。だから、僕が三沢さんから学んだ一番のことは「覚悟」ですね。リングに上がったら、覚悟を決めて後悔がないように全力を尽くす。試合後に「今日は、なんちゅう試合をしてしまったんだ......」という思いだけはしたくなかったんですよ。勝とうが負けようが、全力を尽くしてやることが、自分の気持ちを維持できる理由だったんで。そういう思いがあったから、プロレスに集中し続けることができたんです。

──三沢さんとは「このままやってたら、どっちかが倒れるかもね」みたいな話もしていたらしいですね?

小橋 それは、どっちかが倒れる可能性はありましたよね。でも、リングに上がったら、三沢さんも俺も折れるわけにはいかないので。そういう気持ちの部分でつながっている以上、逆にこっちが折れたら「なんだよ、おまえ」ってなっちゃいますよね。

──「こっちは覚悟を決めて上がってきてるのに、おまえは降りちゃうのか」と。

小橋 そうなったら、三沢さんからしたら、「なんだよ小橋、覚悟が足りないんじゃないか」ってなっただろうし、もし三沢さんが途中で折れたら、「三沢さん、覚悟が足りなかったんじゃないですか」ってなってたと思うんです。三沢小橋っていうのは、「相手に恥ずかしくない試合をしたい」っていう思いが強かったんですよ。

──「相手に恥ずかしくない試合」ですか。

小橋 ブランドを汚したくないとか、そんなことじゃなくて。覚悟を決めてきた相手に「なんだよ、こんなもんかよ」ってガッカリさせたくなかったんです。そういう思いは、僕と(秋山)準との試合でもそうでしたよね。

──試合は一人ではできませんからね。そういう思いで、お互いを高めていってたんですね。

小橋 リングに上がったら、「お、おまえ、こう来たか」って思わせたいんですよ。だからこそ、何度試合しても、新鮮な驚きもあったんです。三沢さんとそういう話をしたわけじゃないですけどね。「前の試合を超えようぜ」なんて、一度も話し合ったことはないですから(笑)。言葉にはしなくても、お互いがそういう思いを持っているのはわかりましたから。

──そういった思いがぶつかって、90年代後半、四天王プロレスはひとつの極みに到達したと思いますけど、2000年にノアになってからは、マット界の状況も大きく変わって。三沢さんの発言からは、PRIDEやK─1の台頭に対して、「プロレスの凄さを見せなきゃいけない」という使命だったり、あとはミスター高橋本に対する怒りみたいなものが出ていたと思うんですけど。小橋さんは、そういう点については、どういう思いがありましたか?

小橋 僕はK─1やPRIDEに対するライバル意識というものが、すごくありましたね。あの頃、プロレスラーがK─1やPRIDEに出たりすることも多かったですけど、僕は純粋にプロレスの試合で、プロレスの凄さを見せたかった。やっぱりプロレスラーは、プロレスでみんなを魅了するのが仕事なんで。プロレスを見た驚き、感動というものを伝えたかった。そういう思いが、2003年3月1日の三沢さんとの試合につながったんですよ。あの日はK─1とかWJもあったじゃないですか?

──ノアが武道館で、K─1MAXが有明コロシアム、そして横浜アリーナでWJプロレスの旗揚げ戦があったんですよね。

小橋 そういう興行戦争があって、大雨も降ってたんですけど、それでも武道館が天辺まで超満員になって、ファンのみんなが凄く盛り上がってくれて。自分たちがやってきたことは、間違いじゃないんだっていうのを強く思いましたね。そういった意味で、ほかの格闘技に負けたくないっていう思いは強くありました。それは三沢さんも、そういう思いが強かったと思うんですよ。だから、言葉は交わさなくても同じ方向を向いていたから、凄い試合ができたんだと思うんです。

──でも、そういうさらなる高みを目指す試合を続けた代償で、小橋さんはどんどん満身創痍になっていったわけじゃないですか。その点についてはどう思ってますか?

小橋 後悔はないですね。自分が必死にプロレスをやってきた結果でしかないので。一生懸命、覚悟を決めてやってきたからこそ、いまがあるんだと思います。確かに病気にもなったし、ヒザだって現代医学ではもう治らないと言われてます。でも、後悔はないです。逆に、ここまでやってこれた自分自身の身体に感謝してるし、応援してくれたファンの皆さんに感謝の気持ちでいっぱいですね。

──それはまさに全力でやってきたからこそ言える言葉ですね。

小橋 これは引退を決めたときからずっと言ってますけど、後悔はまったくないです。ああいう試合をやってきたから、ヒザもボロボロになって、ヒジも動かなくなって、腎臓がんにもなってと言われることもあるんですけど。何のバックボーンもない状態でプロレスに入った自分が、プロレスラーとして上がっていくためには、一生懸命やっていくしかなかった。一生懸命やったら何かがみつかる。でも、一生懸命やらなかったら、何もみつからない。一生懸命やった結果がいまの自分なんだから、後悔することは何もないです。じゃなかったら、引退するとき、ファンのみんなに胸を張って「ありがとう!」と言えなかったと思うんですよ。自分が一生懸命、全力を尽くしてやったから、「25年間ありがとうございました」と言えたんです。

──ファンにも恥ずかしくないし、自分自身に対しても恥ずかしくないという。

小橋 僕はガンになって、「もうプロレスができないんだ、死んでしまうんだ」って思ったとき、三冠チャンピオンになったときのこととか、自分のリング上の姿が走馬灯のように見えたんですよ。僕はチャンピオンベルトも巻けましたし、ベストバウトやMVPなどプロレス大賞もたくさんもらいました。でも、ガンになったとき、自分がプロレスラーになって何が一番うれしかったかをあらためて考えたら、ファンのみんなの声援だったんですよ。あの大きな小橋コール。どんなときでも応援してくれた、あの声援。俺はもうプロレスができないかもしれない、死んでしまうかもしれない。でも、あれだけ応援してもらえたんだから、いいじゃないかって。そう思うことができましたね。

──三沢さんなんかも、各地で待っていてくれるファンのために、ボロボロの身体でもリングに上がり続けたわけですもんね。

小橋 だから、ファンの声援っていうのは、もの凄くレスラーの力になるんですよ。それは無理を強いられてるんじゃないですよ。自分としては100%を見せたいけど、コンディション的にどうしても50%しか出せない。でも、ファンの声援があると、70%まで出せたりするんです。でも、自分が100%出そうとしなければ、いくらファンの声援があっても50%も出せないと思う。でも自分が100%出そうとして、ファンの声援があれば、70%までいけるんです。自分はそういう経験が何度もありますよ。だから、三沢さんもファンのみんなの声援が絶対に力になっていたと思うし、三沢さんを代弁することはできないけど、僕と同じように感謝の気持ちでいっぱいだと思うんです。

──三沢さんが試合中の事故で亡くなったとき、「ファンが過激な試合を求めすぎた結果だ」なんて一部で言われることもありましたけど、そうではない、と。

小橋 ファンが求めすぎたとか、そんなことはないんですよ。ファンのみんなが一緒に闘ってくれたんです。そして俺たちはファンのみんなが期待しているものより上にいきたかったんです。三沢さんも絶対にそうだったと思う。レスラーとして、ファンのみんなは同志ですよ。大切な仲間です。ファンのみんなが、試合を観て熱く語って盛り上がってくれる、それこそがレスラーとしての欲求だし。ファンの欲求を自分たちが超えられなければそれまでだったけど、俺たちはそれを超えたかったんです。

──いまになって、四天王プロレスの頭から落とすような過激な闘いはプロレスとしては間違った道にいっていたんだみたいに言われることもあるじゃないですか。フィニッシュ一発で終わらなきゃいけないんだ、みたいな。その点についてはどうですか?

小橋 プロレスはこうなんだ、という定義はないと思うんですよ。自分が目指すプロレスがああいう闘いだったというだけで、いまの若いレスラーに、俺みたいな試合をしろと言う気はない。でも、三沢小橋のような、ああいうプロレスが存在したことは事実だし。対戦相手とファンと一緒になって燃えた時代があったということは否定できないと思います。自分の試合を否定するということは、三沢さんがやってきたことを否定することにもつながると思うんで。いろんな意見は確かにありますけど、僕は自分のプロレスを全うできたと、胸を張って言えますよ。胸を張って言えるというのが、答えだと思います。もちろん、三沢さんだって「俺は精一杯やってきた」と、胸を張って言ってくれると思いますし、自分のプロレスに後悔はない、僕はそう思いますね。

小橋建太(KENTA KOBASHI)
1987年6月、全日本プロレスに入門。2000年6月にノア移籍後は「絶対王者」としてプロレス界の頂点に君臨。三沢光晴とも歴史に残る数々の激闘を繰り広げ、2013年5月に惜しまれながら現役を引退。現在は個人事務所「Fortune KK」を立ち上げ、様々な分野に活動の場を広げている。

インタビュー◎堀江ガンツ

『俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)』より一部抜粋、全編は本誌にてお楽しみください。

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