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松原のぶえ デビュー36年!歌姫が回想する波乱万丈「人生のワルツ」

松原のぶえ デビュー36年!歌姫が回想する波乱万丈「人生のワルツ」

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涙あり!笑いあり!スクープあり!?
お宝写真で綴る あの芸能人「若気のいたり」
第2回 松原のぶえ編


2014年、デビュー36周年を迎えた松原のぶえ。昨年11月に35周年の記念アルバム『松原のぶえ歌手生活35周年全曲集~吹雪の宿~』を発売。ヒット曲『おんなの出船』『蛍』など全16曲が収録されている。
又、今年2月には松原自身が作詞を担当している『夫婦坂』を発売。こちらも根強い人気となっている。

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今年10月に発売された『合掌街道』


36周年を迎えても相変わらず「歌姫健在」だが、松原にとって避けて通れないのが、今から6年前の2009年5月の一件だ。何と30周年を迎えた09年、松原は歌手生命を賭けた一大手術に踏み切ったのである。

「生体腎移植手術」――しかもドナーは実弟で所属事務所社長である伸輝氏だったのだ。
「08年頃から人工透析を受けていたのですが、腎機能は低下の一途を辿るばかり。09年5月の時点では一日置きに透析を3時間半から4時間受けていました。透析を受けていても調子は上がりません。歌い手の生命線とも言うべき“声”は徐々にですが出なくなってきています。お医者さんは“歌手を続けていくのなら腎臓移植手術しか道はない”と仰っていました」(松原)

 と、松原は手術に踏み切った経緯を述懐する。しかも当時は一部週刊誌で反社会勢力が関係している営業に参加していた事が報道され、自主的に謹慎期間に入っていた時期だっただけに「引退」を覚悟しての手術であった。

「弟は“いい機会だから”と私を励まし、“臓器を提供してくれる”とまで言ってくれました。彼の気持ちは有難かったのですが正直、これには相当な抵抗がありました。彼はドナーになり得るかの適合手術に臨み、適合するという結果に。彼は移植する事を心に決めていたようですが私の胸中は複雑でした」(松原)

09年5月14日、ついに手術を実施。執刀医からは「あっという間に終わるから」と松原は聞かされていたが、思いの外、手術は難航。結局、8時間を超える大手術になった。術後、経過はすこぶる良好。ここ数年、悩まされてきた腎臓疾病とも解消され、今では心身共に全盛期を彷彿させる活躍を見せている。

「最近はカラオケ教室も実施しております。私の持ち歌を生徒さんに歌ってもらい、それを私が直接、指導するというモノです。私の歌なので、私が実際に歌って見せると、生徒さんにしてみたら“何をどう歌えばいいか”が一目瞭然でしょ。手本がそばにいるカラオケ教室、これが今、私のライフワークになっています」(松原)

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カラオケ教室でのスナップ


今では「大御所歌手」として名高い松原だが、生まれは大分県の北部・耶馬溪村(現・中津市)。豊前の田舎で生まれた彼女を一体、誰が「将来は有名歌手になる」と思っただろうか――。

娯楽施設など一切無い山間部。松原少女にとっての楽しみは「寄合いなどでオトナの人たちに混じり歌を歌うくらい」だったという。実はこれが「歌手誕生」の原点だったのだ。松原が当時のことを次の様に振り返る。

「おじさんやおばさんにとって私の様な子どもが熱唱する姿は可愛いモノだったんでしょう。本当の評価かどうか分かりませんでしたが“上手。上手”とべた褒めしてくれるのです。その言葉を額面通りに受けたのが何を隠そうこの私でした(笑)。当時は、“私って歌が上手いのかな”と思い、将来は“歌手になる”と早くから意識していました。もっとも、周囲のオトナが又、その気にさせる発言を私にするのです。“のぶえちゃんは大きくなったら歌手にならないと”などと、田舎の人たちだから、意味も無く期待したくなったのかもしれませんね」(松原)

これが松原のぶえが歌手になった原点だった。

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少女時代の松原のぶえ
ここが歌手生活の原点


とはいえ、華やかな都会とは180度異なる「山、山、山」。「歌手になりたい」と思う反面、「こんな田舎から歌手になれる訳がない」という気持ちもあった事は確かだった様だ。転機が訪れたのは中学生の時。「やってみなくちゃ分からない!」と一念発起したのだ。
「その当時人気だった山口百恵さん、森昌子さん、桜田淳子さんの『花の中三トリオ』を見て、“もしかしたらと私にも手が届くかもしれない”と思ったのです。
『~中三トリオ』は今で言う『AKB48』ですかね……。とても庶民的だったのです。“昌子さんは栃木から上京。一躍、歌手になっている……私は大分だけどなんとかなるかなあ”と思い、中学1年になった時、オーディションを受験。合格して福岡・博多にある『全映テレビタレントセンター』なる養成所に毎週末、通い始めたのです」(松原)

かつてのアイドル誌『明星』『平凡』で知ったタレントセンターのオーディション。「合格するか」「落ちるか」は「出たところ勝負」。まず親に内証で履歴書を送ったのだ。

合格してレッスンに通い始めたのだが、両親は反対も後押しも一切しない。絶対、反対されると思っていた松原だけに若干、拍子抜けした。もっとも、両親も松原が本気で歌手になるとは思っておらず、「(中学までは)好きならば、やればいい」(松原)という程度。そもそも、「こんな田舎(大分・耶馬渓)から本格的なプロ歌手が生まれる訳は無い」と誰もが思っていたのだ。

ただ一人本気の松原は、「インスピレーションがあったのか、この頃から“将来は演歌歌手”になる」と将来の指針を決めていたという。『全映~』ではボイストレーニングの反復。本気モードの松原にとっては「それだけでは足りない」。プラスアルファで九州にある芸能プロダクション『渡辺音楽事務所』にも通い始めたのだ。

「『渡辺~』の先生からは“ある程度歌えるね”と褒められました。それで気分が良くなり、単純にやる気になっていたのです。さらに私を奮い立たせたのが『全映~』の環境でした。私の仲間だった歌手コースの人たちが俳優・女優コースに移籍。最終的に歌手コースは私一人になったのです」(松原)

松原ひとりになった歌手コース。マンネリになりがちなレッスンだが東京から来ていた演技の講師(野尻トシヒコ先生)は、「芝居の勉強をすると、将来的に歌にも役立つのではないか?」と、松原にアドバイス。そこから松原は芝居の勉強を開始した。間もなくして、芝居の公演があり、出演に至ったのだ。

「その公演では“歌の勉強をしているのだから、歌うシーンを作ろう”という事になりました。そこで歌ったのが森昌子さんの『下町の青い空』。今でもいい思い出です。偶然、九州の朝日放送(KBC)のディレクターさんが、その公演を観ていたのです。そこで、ディレクターさんが私を気にかけてくれて、“本格的に歌、やってみる?”と、声を掛けてくれたのです。この時はまさしく“天にも昇る思い”でしたね」(松原)

二つ返事でOKした松原にディレクターは声楽の指導者を紹介。そこから本格的な歌手としてのレッスンがスタートしたのだ。しかも、トントン拍子に話は進展。「デビューするなら若いうちがいいだろう」という事になったのだ。

「何と私のデモデープを北島音楽事務所に送って頂き、聴いてもらったのです。収録曲は『津軽海峡冬景色』『北の宿から』『乙女のワルツ』の3曲でした」(松原)
そして、北島音楽事務所から正式なオファー。松原が高校2年に進級する時だった。その頃、まだ15歳――。

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夢と希望に溢れていた高校時代


この段になって実母は猛烈に反対。逆に自身が歌手になりたかった実父は松原に夢を託したのか、反対しなかった。

「家族会議が続く中、北島音楽事務所から“東京に出て来てください”という話になりました。我が家には東京に親戚はいません。その事情を話したら、北島音楽事務所の専務取締役さんが“僕が預かります”と。その後、北島音楽事務所の専務さんが家族に会いに大分まで来てくれたのです。この姿を見た両親は“嘘ではないのだな”と実感した様です」(松原)

あれよあれよ、という感じで故郷・耶馬溪の期待を背負って歌手デビューを果たした松原。その後の活躍は周知の通りだ。

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デビュー当時の松原のぶえ


幼少期から「歌1本」という人生に見える松原だが、意外にもスポーツのセンスは高い。最近では演歌歌手仲間の大石まどか、城之内早苗、小金沢昇司らとオフを見つけてはゴルフを楽しんでいる。実は松原は100を切る腕前で大石、城之内よりも力は上。世のサラリーマン諸氏でもなかなか100を切るのは困難なスポーツ。これだけでも松原の才能は理解出来るだろう。

さらに松原にはボーリングという“武器”がある。こちらは北島音楽事務所から独立した際、現・事務所『のぶえオフィス』を設立した初代社長であり前夫の影響で始めた。

「独立した02年頃、少しでも時間が空けばボーリング。自宅近くに『笹塚ボール』というボーリング場があって、そこが主戦場でした。何しろ、仕事から帰って来て、時間があれば直行。土曜日などは、朝5時まで営業していたので、地方に出かけていない限り、必ず通っていました。しかも、土曜日は特別な設定があり、楽しみで仕方ありませんでした。設定というのはピンクで描かれた星の付いたピンが何本かに一本入っているのです。その“ピンを倒すとプレゼントがもらえる”という規定があって、そのピンが現れるのを楽しみにプレーしていました」(松原)

と、松原は当時を懐かしむ。ゴルフでもお分かりの通り「のめり込み症」の松原。ボーリングにもストイックにハマり、ベストスコアは245。アベレージは200超だったそうだ。

「概ねストライク、落としてもスペア。ミスは殆ど無かったです。私がボーリングにハマったのは行きつけの『笹塚ボール』の環境が凄く、その影響も多分に受けたと思います。『笹塚~』にはプロボーラーがいて、無料指導をして頂いたり、有料のレッスンに参加したりしたのです。そうこうしているうちにプロテクターやマイボールなど、ボーリンググッズを全部揃えて、本格的になってきたのです。かなり上達しましたね」(松原)

マイボール、マイプロテクターでボーリングに励む演歌歌手。傍目にはとても「異質な光景」に思えたに違いない。ところが、この努力を影でしっかり観ていた人物がいたのだ。松原が苦笑しながら語る。

「皆さんご存じのプロボーラー・中山律子さんが私に、“今から特訓してシニアプロでデビューしたら?”という温かいお言葉をくださったのです。しかし、当時は“シニア”の三文字に相当、抵抗があり、折角のお話でしたがやんわりお断りしたのです」

その後、松原は前夫と離婚。ボーリングとは距離が出来てしまい、ゴルフに転向したという訳だ。勿論、本業の歌手活動も順調。今ではカラオケ教室の指導者としても活躍している。松原が今尚、第一線で活躍出来るのは「いい趣味」に巡りあえたからだろう。

松原のぶえカラオケ教室
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「若気のいたり」を全部読む
http://taishu.jp/entertainment/wakaba/

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