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【三沢光晴をめぐる証言vol.3】越中詩郎インタビュー

2代目タイガーマスク、全日本プロレス社長、プロレス四天王としての活躍、そしてプロレスリング・ノア旗揚げ。「天才」という名を欲しいままにしつつ、2009年6月13日におきた「リング上での死」という形で、ファンに衝撃を与えたままこの世を去った三沢光晴。
先日発売された「俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)」では、彼と関係のあった10人のレスラーの証言を集め、プロレスラーとして、また男として、三沢がどんな人間だったのかに迫った。今回は、特別にその中から一部を抜粋して紹介したい。


「(馬場さんに体重100キロになったら海外に行かせてやると言われて)ようやく行かせてもらえることになったんだけど、“その代わり、三沢も一緒にな”って言われて。三沢、100キロなんか、全然ないのによ(笑)」

──今回は三沢光晴さんの特集なんですけど、越中さんにとっても若手時代、とくにメキシコ修行時代に苦楽を共にした三沢さんは特別な存在なんじゃないですか?

越中 うん、印象は強いよね。付き合い的なトータルで言ったら、闘魂三銃士とか、(長州)力さん、藤波(辰爾)さんなんかのほうが全然長いのに、不思議な感じですね。

──若手時代の濃密な時間を共有してるわけですからね。ましてや越中さんは、三沢さんやターザン後藤さんという後輩が入る前まで、新人が一人だけという、大変な時期が長かったわけですし。

越中 俺のすぐ上の先輩っていうのは、大仁田(厚)、渕(正信)、(ハル)薗田という3人なんだけど、5年ぐらいあいてたからね。だから小僧は俺だけですよ。それで後藤、三沢が入ってくるまで2年半空いてますから。その後、間髪入れずに川田(利明)が入ってきて、国際プロレスから冬木(弘道)が合流してきて、もう道場の雰囲気がガラッと変わりました。それまでは、俺と渕さんしかいなかったんだから。

──道場にたった2人ですか(笑)。

越中 悲惨なもんですよ。誰もいないから、いつもシーンとしてるんだもん。なんだこれ? って。だから、三沢たちが入ってきて、道場内がガヤガヤと明るくなりましたよ。

──当時の全日本プロレスって、なんであんなに若手がいなかったんですか?

越中 若手を育てようという発想がなかったんですよ。馬場さんの中では、若手っていうのは、自分の世話をする使用人みたいに思ってるからさ。ずーっと前座と雑用をやらせておけばいいと思ってるんだから。でも、そのリズムを変えてくれたのは、昭雄さんだろうな。

──佐藤昭雄さん。

越中 昭雄さんが馬場さんに、何度も「若い人をどんどん登用しないと」って言ってくれたんだよ。そういう意見を言う人を馬場さんは凄く煙たく思ってたんだけど、昭雄さんはあえて言ってくれて。もし昭雄さんがいなかったら、俺も三沢もメキシコ遠征なんかなかったよ。

──ずっと前座のままですか。

越中 ずっと前座、ずっと付け人のままでね。俺は入門してから海外出るまで7年かかってるんだけど、後半3年は馬場さんの付け人で、その前の大仁田選手は5~6年やってますから、俺もそれぐらいはやらされていただろうからね。

──昔は“丁稚生活”が長かったんですね。新人時代の三沢さんっていうのは、どんな選手でしたか?

越中 性格は大人しかったけど、器用だったよね。三沢のデビュー戦の相手は俺が務めたんだけど、入門して半年かからないデビューだったから、当時としては本当に異例。あと、新弟子の練習というのは受け身が中心で、試合の練習なんか一切教えないんですよ。でも、彼はデビューしてすぐに、教えなくても試合になってたんだよね。ああいう人間は、他にいなかった。デビュー間もなく、ちゃんとプロレスができるっていうのは、ジャンボ(鶴田)さんと三沢ぐらいでしょうね。

──本当に天才肌だったんですね。

越中 彼はメキシコ時代に飛んだりしてたけど、練習では一切やったことないからね。だから、こなしちゃうんだよね。

──自分の頭でイメージしたことが、実際にできちゃう。

越中 できちゃうんだよね。まあ、彼は彼なりに、人の見えないところで技の研究をしてたんだろうとは思うけどね。

──そして、越中さんは三沢さんとともにメキシコ修行に出るわけですけど、海外に出るのは念願でしたか?

越中 もちろん、それを夢見てましたからね。僕は若手時代、高千穂(明久=ザ・グレート・カブキ)さんとか、昭雄さん、桜田(一男=ケンドー・ナガサキ)さんなんかに憧れてたんですよ。カバン一つで全米を飛び回ってね。日本に3週間帰ってきたかと思ったら、次はダラス、その次はノースカロライナとかね。そういう腕一本で生き抜いてる人たちを見て、「これがプロレスラーなんだ」と思ったんですよ。

──一匹狼で腕を買われて各地を飛び回る人たちですね。

越中 俺もああいう人たちのようになりたいと思ってたんだけど、実際はずっと付け人生活ですよ。それがある日、馬場さんが「体重100キロになったら海外行かせてやる」って言ってくれたんです。そっからはメシでも何でもガンガン食って、100キロに乗せて行けることになったんだけど、僕はメキシコに行くなんて夢にも思ってないわけです。海外と言ったら、高千穂さんみたいにカバン一つで全米を暴れ回りたかったんですよ。そしたら、「三沢とメキシコに行け」って言われて、「は?」って。でも、それすら昭雄さんが助言してくれなかったら、なかったですよ。

──やはり、そうなんですか。

越中 だって、昭雄さんとの話を聞いてたら、馬場さんは「海外遠征なんか行く必要ねえじゃねえか」って言ってるんだから。「越中は置いておけよ。また、違う付け人にイチから教えるの面倒だろ」って。そういう理由ですよ!?

──「せっかく一人前の付け人に育ったんだから」と。全然、レスラーとして見てない(苦笑)。

越中 でも、昭雄さんは常々「若い人間を使って、全日本を変えていかなきゃダメなんだ」って言ってたんです。それは新日本を見ていたからですよ。

──新日本は、タイガーマスク(佐山聡)、小林邦昭、前田日明と、新弟子がどんどんスターになっていきましたもんね。

越中 それで俺も100キロになって、ようやく行かせてもらえることになったんだけど、「その代わり、三沢も一緒にな」って言われて。三沢、100キロなんか、全然ないのによ(笑)。

──ダハハハ! 100キロのハードルは、なぜか越中さんだけ(笑)。

越中 でも、あの当時の全日本で、三沢のキャリアで海外に出るっていうのは、異例のことだったんですよ。ボクは7年ぐらいかかって、彼はその半分以下ですから。

──そこも三沢さんは異例だったんですね。


越中詩郎(SHIRO KOSHINAKA)
1978年7月、全日本プロレスに入門。若手時代には三沢と一緒にメキシコに遠征して「サムライ・シロー」として活躍。その後、85年8月に新日本プロレスに移籍。現在はフリーランスとして様々なリングに上がり、会場を湧かせ続けている。


インタビュー◎堀江ガンツ

『俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)』より一部抜粋、全編は本誌にてお楽しみください。

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