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「永遠の0」の戦場を生き抜いた男が語ったゼロ戦「ラバウル航空戦の真実」vol.2

[週刊大衆09月02日号]

本田氏らの零戦が守る26機の一式陸上攻撃機は、ガ島のルンガ飛行場の上空に達するや、爆弾の雨を降らせ始めた。地上からの激しい対空砲火にさらされるなか、本田氏ら零戦部隊は、護衛を続けた。

一式陸攻が所定の目標に対する爆撃を成功させ、帰途に就こうとしたとき、本田氏は、右手上空に何かが光ったのを見逃さなかった。それは、米海軍のグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機約30機の編隊だった。敵機は必ず2機でペアを組み、一式陸攻目掛けて上空から“一撃離脱戦法”で攻撃をかけ、高速で離脱する戦法を繰り返した。

一撃離脱戦法とは、戦闘機同士ががっぷり四つに戦う巴戦(ドッグファイト)を避け、高所より急降下し攻撃をかけたあと、速やかに戦域を離脱する戦法。まともに戦っては零戦に勝てないと判断した米軍機が、多用したことで知られる。
零戦は時速約550キロ、7・7ミリ機関銃×2、20ミリ機関銃×2を備えた日本が世界に誇る名戦闘機。
驚くべきことに、本田氏ら護衛の零戦隊は、劣勢にあるにもかかわらずF4Fを次々と撃ち墜としていった。この日は、17機のF4Fを撃墜(損失4機)の戦果だった。本田氏は連日、このような過酷なガ島攻撃を敢行したのである。

ある日、27機の零戦が9機ずつ3つの編隊に分かれてガ島攻撃に向かった。この日のミッションは、一式陸上攻撃機の護衛ではなく、敵戦闘機隊の掃討だった。本田氏は、今日こそは思う存分戦えるぞと、闘志満々でガ島を目指した。
この日は40機のF4Fが上空で待ち構えていた。
〈彼我の距離数百メートル。隊長機が増槽を捨てると一同も一斉にそれに従う。サテ俺はどれを喰ってやろうかと虎視眈々、しかし敵も味方も編隊を崩さない。例によって敵は絶対に単機ではかかって来ない。少なくとも二機でガッチリ編隊を組んで攻撃してくる。
ついに索敵。敵機はF4Fであった。私は容易にその一機についた。運動性にかけてはF4Fより優れた零戦のことだ。絶対に逃がしはせぬぞと接近する。距離は五百、三百、百メートルとグングン縮まって行く。敵のパイロットがうしろをふり向く。顔と顔が合う。と同時に二十ミリ機銃を発射して一連射を加えた。敵は左へ傾き、そのまま下へと突っ込んで行った。私は右旋回で上昇し、今の敵機が黒煙を吹いて墜落するのを確認した〉(前掲書)

戦場は、敵味方入り乱れての激しい乱戦になった。
本田氏が、次の獲物を追って上昇していたときのことだ。右上方から2機のF4Fが襲い掛かってきた。本田氏は、反転して敵2番機の後ろにつこうと懸命に操縦桿を引いて、必死に敵の背後に食らいついた。それは、ドッグファイトのお手本のような戦いであった。敵の背後を取った本田氏はF4Fに20ミリ機銃を浴びせ、見事、葬ったのである。

来る日も来る日もガ島への攻撃が実施され、本田氏は、通い慣れた空の道を往復した。空中戦では、零戦隊は依然、敵を圧倒し続けていた。ところが、そんな優勢に変化が生じ始めた。
「零戦が絶対優位に戦えたのは昭和18年2月頃まででした。2月以降は、敵機を墜としにくくなったんですよ。敵は戦法を変えたんです。零戦との巴戦を避け、一撃離脱戦法を採用するようになったんです」
ちょうど同じ頃、日本軍はガダルカナルから撤退、これに伴って、ラバウル航空隊の矛先はニューギニア方面に向けられることとなった。

昭和18年3月3日、本田氏の率いる2個小隊(6機)を含む計12機の零戦が、ラバウル基地を飛び立った。この日の任務は、ニューギニアのラエに向かう陸軍部隊約7000名の将兵を乗せた味方輸送船8隻と、護衛の駆逐艦8隻の直掩(ちょくえん/上空を飛んで敵機を排除する)だった。だが、日本軍の動きを事前に察知していた米軍は、B17、B24、B25爆撃機、A20攻撃機などと、護衛機としてP38戦闘機を加えた120機の大部隊を送り込んできたのである。本田氏らの僅か12機の零戦は、この10倍の敵と戦わねばならなかった。

9月1日公開のvol.3に続く・・・

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