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元陸自戦車連隊長分析 戦国合戦「NHK大河 軍師・官兵衛の兵法」 vol.01

[週刊大衆01月06・13年末合併特大号]

戦国覇者・織田信長の天下取りを完成させるべく、中国経営を命ぜられた羽柴秀吉は、天正8(1580)年1月、別所長治の三木城を落として播磨(兵庫県西部)を平定。
翌9年10月、毛利家の重臣・吉川経家の籠る鳥取城を陥落させ、因幡(鳥取県東部)を手中にした。

両城の攻略はともに兵糧攻め。秀吉は「三木の旱殺し、鳥取の渇殺し、太刀も刀もいらず」と豪語した。

天正10(1582)年3月、秀吉は毛利攻略に本腰を入れる。
2万余を率いて山陽道に転戦、備中(岡山県西部)に入り、毛利輝元の属城・高松城を囲んだ。高松城には、毛利家の猛将として鳴る清水宗治以下3千強が籠城していた。

高松城攻略の決め手は、「水攻め」である。
秀吉は本営を石井山に置き、高松城西北の門前から蛙ヶ鼻にかけて、底辺22メートル、上辺11メートル、高さ7メートル、長さ4キロの長堤を築いた。
工事期間はわずか12日間、5月21日には完成したといわれる。
この2日後、毛利軍主力4万余が高松城救援に来援し、岩崎山、日差山などに陣を構えた。

毛利軍は、主将・毛利輝元自ら主力を率いての出陣であったが、高松城との提携はできず、また羽柴軍団は、警備を厳にして毛利軍との戦闘を回避した。
日が経つにつれて長堤内の水かさが増し、5月下旬には高松城は完全に孤立した。

広域に展開した古代ローマ帝国の軍隊は土木工事に長けていたが、彼らはいわば「工兵」の集合であった。
今日に伝わる石畳の街道、石橋などに、その技術の高さが窺える。

日本の軍隊は文字通りの歩く兵隊であったが、唯一、戦争に土木工事を導入したのが羽柴秀吉であった。
秀吉は水攻めの大工事をわずか12日間で成し遂げた。これは、技術の発達した現代の感覚から評価しても、偉業と断じてよい。

長堤を築くという発想そのものが秀逸であるが、築堤工事の早さも驚異的である。
着想、土木技術、速度、統率力などのすべてにおいて【奇襲の原則】を具現している。
羽柴秀吉は、木下藤吉郎時代に洲俣築城(永禄9年・1566年)を短期間で成し遂げており、元来、この方面に非凡な資質を有していた。

――【奇襲】とは、敵の予期しない時期、場所、方法などによって、敵に対応のいとまを与えないように物心両面の打撃を加えることである。奇襲において最も重要なことは、敵に対応のいとまを与えないことで、意表をついて得た成果をすみやかに拡大し、目標を達成しなければならない。

かくして毛利軍主力との決戦の態勢は整ったが、羽柴軍団のみでは戦力が不足する。
ゆえに、秀吉は安土の織田信長に救援を乞い、信長は5月17日、明智光秀以下の諸将に備中赴援を命じた。
信長自身は、5月29日わずかの手勢を率いて京都に入り、四条西洞院本能寺に宿営した。

天正10年6月2日未明のことだった。
織田家の重臣・明智光秀は、1万3千の兵をもって本能寺および二条御所を囲み、午前9時頃までに信長・信忠の父子を討った。
世に言う「本能寺の変」である。

当時、織田軍の主要武将(軍団長)は、東海道に徳川家康、東山道に滝川一益、北陸道に柴田勝家、近畿に明智光秀、中国に羽柴秀吉、南海道に丹羽長秀が、それぞれ配置されていた。

"天下布武"を掲げて天下統一目前の織田信長にとり、大業成就前夜のまさに予期せざるクーデターであった。

本能寺の変の報が石井山の秀吉の本営に轟いたのは、6月3日夕刻頃であった。
羽柴秀吉にとり、明智光秀のクーデターは、まさに想定外であったに違いない。

想定外と言えば、11年3月11日、東日本大震災が思い起こされる。
地震、津波、原発という災厄に、時の民主党・菅直人政権は遅疑逡巡、右往左往したことは記憶に新しい。

01月06日公開のvol.02に続く・・・。

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