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元陸自戦車連隊長分析 戦国合戦「NHK大河 軍師・官兵衛の兵法」 vol.03

[週刊大衆01月06・13年末合併特大号]

羽柴秀吉は、本能寺の変の報を受け、一連の状況判断により、明智光秀を誅殺するために京阪地区に反転するという決断に達した。
直ちに後退行動のための準備に着手した。これが、軍師である官兵衛の進言であるなら、それは大成功だったといえるだろう。

新たな作戦を遂行するうえで秀吉が先ず行うべきは、毛利軍との和平である。
毛利方の外交官である安国寺恵瓊を招いて斡旋に当たらせ、城兵の命を助ける代わりに清水宗治に腹を切らせ、備中・美作(現・岡山県北東部)・伯耆(現・鳥取県中西部)などを毛利氏から織田氏に割譲するという条件で講和が成立した。
この講和の成立時間は明白ではないが、おそらくは3日の夜遅くなってであろう。

翌6月4日午前、秀吉は杉原家次に検使を命じて、高松城主・清水宗治を切腹させ、城を受け取らせた。
城主に腹を切らせた目的は、羽柴軍の武威を天下に誇示し、部下将兵に勝利を具体的な形で見せることであった。
決断からわずか半日、電光石火の処置である。

秀吉は5日まで高松に在陣し、翌6日の午後3時頃、急に高松を発し、夜に入って備前の沼(岡山市)に至り、7日には大雨暴風の中で数カ所の大河を渡り、洪水をしのいで本拠地・姫路に帰った。

この間、収容部隊として宇喜多忠家の兵1万を10キロ後方の岡山城に配置し、残置部隊として黒田官兵衛の部隊を現地に残し、これらの掩護下に主力2万があらゆる経路を使用して一斉に戦場を離脱した。

官兵衛はいわば「殿」の大役を仰せつかったわけだ。
この働きいかんでは、友軍主力部隊が手痛い被害を蒙る。

官兵衛はおそらく、この重責を自ら買って出たのではないか。
黒田部隊には、決死隊にも等しい残置部隊の重責を果たし、かつ生還するための秘策があった。

長堤を一気に決壊させて毛利軍との間を冠水させ、毛利軍の追撃を困難にしてから離脱したのだ。

昭和19年12月、敗色濃いビルマ戦線で、こんなエピソードがある。
木庭智時少将指揮する第54歩兵団は、アキャブからアラカン山系を越えて撤退することになった。
撤退路の途中カンゴーに、小兵力で数個師団を阻止できる小高地がある。

少将は連隊きっての勇敢な小隊長を呼び、高地の戦術的価値を説明し、高地確保が歩兵団を救う唯一の手段であることを諭し、小隊長に残置部隊の指揮を命じた。
30人余の小隊は英軍を3日間阻止して小隊長以下全員が戦死した。
今昔、洋の東西を問わず、残置部隊には最精鋭部隊を指命するのが戦場の掟なのだ。

毛利軍の眼前で離脱・離隔を成功した羽柴軍団主力2万は、備中高松から軍団の本拠地・姫路までの80キロを、荒天をついて2日間の強行軍で進んだ。

続いて間髪を入れず、姫路から尼崎への急進である。
羽柴軍団は姫路城で作戦準備を行い、6月9日、姫路城を空にして発進、11日午前中に尼崎の集結地に到着した。
姫路-尼崎はおよそ70キロ、羽柴軍団はこの間を2日半で行軍し、平均速度は27キロ/日であった。

備中高松から尼崎までは150キロ、本拠地・姫路での大休止、作戦準備を除くと、羽柴軍団は平均33キロ/日の行軍速度で移動したことになる。
置部隊のための収容部隊を配置する。

01月10日公開のvol.04に続く・・・。

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