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本多正信 裏切りながらも家康を天下人にした懐刀

[ヴィーナス11月03日号]

本多正信 裏切りながらも家康を天下人にした懐刀

裏切り、そして裏切られ——。乱世に生き、大きな“決断”をした男たちの末路を振り返る。【戦国武将ヒストリー・本多正信1538-1616】
三河(愛知県西部)の小領主・松平氏に、古い時代から仕え続けてきた本多家に生まれる。正信は、幼少から松平元康(後の徳川家康)に仕え、鷹匠(鷹狩りの際に鷹を操る人)になっていた。
幼少時から近隣大名に人質として預けられる不遇の生活を送っていた家康は、1561年、二十歳を目前にやっと自立するが、直後から、領土内の一揆に苦しむ。この一揆は、多くの領民を巻き込み、家康の命を脅かすのだが、実は、その指揮を執ったのが、家康を裏切って出奔した本多正信だった。
一揆が鎮圧された後の正信は、畿内の梟雄・松永久秀に仕えた。久秀は、悪知恵と裏切りに満ちた武将で、気性の荒い信長を2度も裏切り、最後は爆弾で自爆した、癖のある男である。正信は彼の家臣として、その“独特の処世術”を10年ほど学ぶのである。
正確な年は分かっていないが、正信は1570~1580年頃に、徳川家に帰参を許されている。そして以後、彼こそが、家康が天下人となるための、鋭く、かつ、忠実な懐刀となるのだ。家康の将軍就任、江戸幕府開設、豊臣家を滅ぼすための大坂の陣など、家康晩年の“転機”はすべて正信の献策といわれ、家康が死ぬと、その後を追うように、逝去している。
正信の逝去当時、本多家はすでに江戸幕府の重鎮で、なおかつ、嫡男・正純も切れ者で幕閣の中心人物だったが、正信にとっては、それが逆に心配の種だった。正信は、自身も1万石程度という大名としては最低レベルの領地以上の加増は拒絶、「権力を持つ者が大きい領地を得ることは、災いをもたらす」と、言い残していた。
ところが正純は、この“遺言”を無視して、宇都宮で15万石という大封を得る。すると、1622年、多くの妬みを買った正純は、あらぬ疑いをかけられて失脚し、改易されるのだ。自らも主君を裏切り、さらに、稀代の裏切り武将を間近で見た正信の処世バランスは、正しかったのである。

本多正信 裏切りながらも家康を天下人にした懐刀

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