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津軽為信 主家から領土を乗っ取った下克上の代名詞

[ヴィーナス11月03日号]

津軽為信 主家から領土を乗っ取った下克上の代名詞

 裏切り、そして裏切られ——。乱世に生き、大きな“決断”をした男たちの末路を振り返る。【戦国武将ヒストリー・津軽為信1550-1608】

 出自には諸説あるが、現在の青森県や岩手県で力を持っていた南部氏の一族とされている。1568年までに、青森県津軽地方を本拠とする国人・大浦氏に養子入りし、大浦城主となる。

 南部氏の一族だったとされるが、大浦家に養子に出されていた、津軽為信。その頃、南部氏家中では内紛が起きており、宗家・南部晴政と一族の石川氏が対立していた。家中が分裂して緊迫感が増す中、為信は突如、晴政の叔父で、石川氏の当主・高信を殺してしまうのである。

 高信は智勇に優れた武将で、石川城(弘前市)を拠点に津軽統治を任されていた。その石川城を為信が攻め、乗っ取ったのだ。すぐに高信の次男・政信が石川家を継いだが、為信は、政信に自らの妹を差し出して安心させたうえで呼び出すと、暗殺してしまうのである。その後の為信は、南部氏の領土を次々と支配下に置き、勢力を拡大する。

 とはいえ、主家を裏切り、領土を簒奪するだけでは、いつ、取り返されるか分からない。そこで為信が利用したのが、天下統一を成し遂げようとしていた、当時の豊臣秀吉だった。秀吉は、東北地方の大名に、戦を止めて自分に服すれば、領土を安堵すると呼びかけていた。為信はそれにいち早く乗り、津軽地方は自分の領土であるとして、従属の誓いと贈り物を送ったのだ。地方の詳細など知らない秀吉は、為信の恭順の姿勢を評価。領土を安堵する。

 その後、南部氏も秀吉に恭順の意を示し、同時に、津軽地方は南部氏の領土だと訴えたが、すでに時遅し。ここに、大浦為信の“裏切り独立”が果たされた。

 直後、大浦から津軽 と姓を改めた為信は、徳川政権下でも生き残り、弘前城を築城。津軽氏は10万石の藩主として、安定した治世で代々続く。そして、現在の弘前市は、人口17万人を有する津軽の中心都市に発展。弘前城の天守閣は、日本でわずか12しかない現存天守として、現在の弘前市の象徴となっている。

津軽為信 主家から領土を乗っ取った下克上の代名詞

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