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伊達政宗 奥羽に漂うぬるいルールを打ち破った独眼竜

[ヴィーナス11月03日号]

伊達政宗 奥羽に漂うぬるいルールを打ち破った独眼竜

 裏切り、そして裏切られ——。乱世に生き、大きな“決断”をした男たちの末路を振り返る。【戦国武将ヒストリー・伊達政宗1567-1636】

 東北随一の名門・伊達氏の17代目当主。幼少時に患った病気が原因で右目を失明し、根暗な少年時代だったと伝わるが、師僧・虎哉宗乙と近習・片倉景綱に導かれて成長する。初代仙台藩主。

 東北の戦国大名には、「洞」というルールがあった。洞とは、結婚や養子縁組を通じて、複数の大名を一族や一家としてまとめた、連合体のようなもの。戦が起きても本気で争うことは少なく、誰かが和議を持ち掛け、“仲直り”する暗黙の了解があった。

 そんなルールを破ったのが、伊達政宗だった。戦となれば本気の潰し合いを行い、負けた武将には厳しい条件を突き付けた。しかし、東北の諸将にすれば、これは裏切り行為だったのだ。そして、政宗から厳しい降伏条件を受けたことに逆恨みした畠山義継が政宗の父・輝宗を拉致したことで、状況は一変する。輝宗は洞を理解し、他家と良好な関係を築いていたため、その死は、政宗打倒を目論む反伊達連合を形成させたのだ。結果、政宗は1585年に7000の兵で、反伊達連合3万と激突(人取橋の合戦)。多くの犠牲を出し、自らも命の危険に瀕しながら、なんとか引き分けに持ち込む。その後、反伊達連合との戦に明け暮れる日々が続き、一進一退しながらも、24歳で南奥羽の覇権を確立した。

 しかし、豊臣秀吉の天下統一によって、戦で獲得した領土を半分以上も没収され、さらに、領地替えも経験。それでも、江戸幕府政権下では、62万石という天下第3位の雄藩の礎を築く。しかも、実際には100万石以上の経済力を有し、江戸で食される米の3分の1が仙台米となったのだ。

 三代将軍・家光からは絶大な信頼を寄せられ、「親父殿」と呼ばれ、数々の特別待遇を受けていた。政宗が逝去した際、家光は、江戸で7日間、京都で3日間、喪に服す命まで出している。ぬるいルールを、強い意志で断ち切った先には、素晴らしき日々があった。

伊達政宗 奥羽に漂うぬるいルールを打ち破った独眼竜

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