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元中日・山田喜久夫氏が語る「打撃投手のウラ側」

[ヴィーナス12月04日号]

元中日・山田喜久夫氏が語る「打撃投手のウラ側」

 1989年、愛知県の名門・東邦高校をセンバツ優勝に導いた山田喜久夫氏。同年、中日に入団し、中継ぎとして活躍。94年、伝説の「10・8決戦」のマウンドにも立った。99年に広島に移籍するも故障もあり引退。その後は、横浜と中日で10年以上、打撃投手を務めた。現役よりも長く打撃投手を務めた山田氏に、話を聞いた——。

 広島をクビになって、そのときに金本知憲さんがいて、「球団に残って打撃投手をやれよ」って言ってくれたんですが、実は横浜からも誘いがあって。しかも当時監督だった権藤博さんから、「現役でやらないか?」って言われていたんです。迷ったんですが、もう野次られるのも嫌だし、燃え尽きたのもあって。だから、お断りして裏方に回ったんです。ひと口に打撃投手といっても本当に大変。毎日100球以上投げるから体のケアが必要です。現役時代よりキャッチボールをしていましたよ。選手はトレーナーが見るけど、私は自費でマッサージに行っていましたね。

 投げるのも難しい。マウンドの傾斜がないし、くれぐれも打者に当てちゃいけない。それで腕が縮こまってイップスになった人を何人も見ました。ロバート・ローズなんかは「アウトコースにだけ投げて」って言うしね。私はコースに投げ分けるのが得意だったので、それができましたけど。主力相手に投げることを“メイン”と呼ぶんです。駒田(徳広)さんや石井啄朗は、どんな球にも対応していたし、タイロン・ウッズは飛距離がすごかった。横浜スタジアムのバックスクリーンを超えていくんですよ。メインで放っていたので、給料は裏方とは思えないほどもらっていましたよ。中日時代は、落合さんが「頑張れよ。ちゃんと評価してるから」と言ってくれて。責任は大きかったけど、その分の対価はもらえていましたね。

 12年限りで打撃投手を辞めたんですが、やっぱりケガがあった。肩や肘が痛くなって、もう無理だなと。ベン(和田一浩)や森野(将彦)が「まだ投げてよ」「個人的に契約しようかな」って言ってくれてうれしかったですね。選手からの「キクさんのおかげで打てました」って言われるのがやりがいで、続けることができたんだと思います。今は野球から離れていますが、いつかは高校野球の監督になれればと思っています。指導者の資格も取りに行きました。できれば母校の監督になって、甲子園に行きたいですね。

【プロフィール】やまだ・きくお 89年、ドラフト5位で中日に入団。99年の引退後、横浜、中日の打撃投手になる。現在は、ナゴヤドームの近くで、「喜来もち ろまん亭」という喫茶店を経営中。わらび餅が絶品。

元中日・山田喜久夫氏が語る「打撃投手のウラ側」

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