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長嶋茂雄ミスターの心に火を点けた故川上哲治ドンの"あのひと言"

[週刊大衆11月25日号]

10月30日、衝撃的な訃報が球界を駆け巡った。

2日前の28日、巨人軍監督として不滅のV9を成し遂げた川上哲治氏が東京都稲城市の病院で、老衰のため亡くなっていたというのだ。享年93だった。

31日の午後、天皇・皇后両陛下主催の秋の園遊会に出席した長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督は、その足で川上氏の自宅を弔問に訪れ、「言葉はかけなかったが、一生懸命お祈りさせていただきました」と記者団にコメント。
ともに黄金時代を築いた絆を窺わせた。

しかし、実際には故・川上氏と長嶋氏の間に大きな溝があったのは、周知の事実だろう。
当時、巨人軍番記者だった『夕刊フジ』の江尻良文氏が解説する。
「2人の溝として有名なのは、1980年10月21日の長嶋監督解任騒動です。巨人がシーズン3位に終わったこの日、突如として"男のケジメ"として退任記者会見を行った長嶋監督ですが、直前までは続投する気満々だった。実際には解任されたんです」

長嶋解任を決断したのは当時、巨人軍の最高権力者だった故・務台光雄読売新聞社社長だったが、その裏には川上氏の存在があった。
「川上さんと務台さんのパイプの太さは有名で、電撃解任を勧めたのが川上さんだというのは、関係者の間では常識。次の監督も川上さんの一番弟子の藤田元司さんでしたしね。解任劇のあとの長嶋さんの怒りは凄まじく、しばらく"川上"という単語すら口にせず、当時、川上さんが世田谷区野沢に住んでいたので"野沢のオッサン"と呼んでいました」(スポーツ紙記者)

実は、この解任騒動以前から、ミスターが川上氏に対して決定的に不信感を抱いた出来事があったという。

川上監督政権下の長嶋は、チームの叱られ役となることが多かった。
「ミスターでも叱られるんだ……とチームを引き締める効果は絶大でしたが、川上さんは監督を長嶋さんに譲った直後から、"長嶋をあえて叱り、チームを引きしめるという管理術を用いた"と本に書いたり、喋ったりするようになった。叱られるのはチームのため、と堪えていた長嶋さんも"そんなことを話すのは機密漏洩だ!"と怒っていました」(巨人関係者)

もともと、ミスターと川上氏の哲学は正反対。
「川上さんは"ドン"といわれるだけあって親分肌。自分の派閥の人間を可愛がる代わりに、敵は排除する。一方の長嶋さんは群れるのが大嫌いで、非常に筋を重んじる。とにかく両者はまったく手が合いませんでした」(前出・江尻氏)

"V9の川上哲治監督"を乗り越えようと、当時の長嶋茂雄監督が発奮したことは間違いないだろう。

58年、巨人に入団した新人選手・長嶋茂雄は、川上哲治から4番の座を奪い、その年が川上の現役最後の年になった。

あれから55年――。
時間の重みは、この2人にしかわからない。

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