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小野田寛郎元少尉が守り抜いた「陸軍中野学校」鉄の教え

[週刊大衆02月10日号]

昭和19年(1944)12月にフィリピンに派遣され、以来30年間、同地でゲリラ戦闘を続けた小野田寛郎・元陸軍少尉が、東京の病院で息を引き取った。享年91。
「ルバング島のジャングル奥深くに潜伏していたため、小野田元少尉の元には、終戦や任務解除の知らせが届かなかった。それで3名の部下とともに、任務を継続したんです」(防衛大学校・戦記教育関係者)

小野田元少尉は戦後も、フィリピンに駐留する米軍のレーダー基地を襲撃したり、米兵を狙撃するなど、一貫して戦闘任務を継続した。
実に百数十回を数える戦闘で、米兵ら30人余りを殺している。

部下の1人は終戦の4年後に投降、残る2人はゲリラ戦闘中に戦死している。

昭和49年(1974)に、日本の冒険家がジャングルで小野田元少尉を発見、説得を試みたが首を縦に振らなかった。
「そこで、上官だった少佐を現地入りさせ、正式に任務解除の命令を与え、帰国を決意させました。上官が命令を読み上げる間、小野田元少尉は直立不動だったといいます」(前同)

しかしなぜ、小野田元少尉は、かくも長く戦い続けることを選択したのか。
「それは彼が陸軍中学校出身だからですよ。同校は諜報、防諜、破壊工作のエキスパートの教育機関で、"投降の呼びかけや、終戦の報道は敵方のプロパガンダ"と教えていたため、小野田元少尉は、終戦を信じなかったのでしょう」(同)

小野田元少尉は、入手した小型ラジオを改造して、当時のニュースを傍受していた。そのため、戦後日本の様子を広範に把握していたと告白している。

ただし、「東京を首都とするのは米国傀儡の日本政府で、満州に"真の日本"がある」と判断し、投降を思いとどまったという。
「小野田元少尉は、中野学校の分校である二俣分校(静岡県浜松市)の出身。二俣分校は戦況の悪化著しい昭和19年に設置されたため、情報戦よりも遊撃戦、いわゆるゲリラ戦闘の指導員の育成が主眼でした」(軍事ライター・黒鉦英夫氏)

小野田元少尉はここで、「玉砕はするな。主力部隊による反攻のときに備え、現地に溶け込み、少数で敵を攪乱し続けろ」(前同)と教え込まれていたという。

"最後の日本兵"は、死の間際、祖国日本に何を思ったのだろうか。

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