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明智光秀が「山崎の合戦後も生きていた」決定的証拠掴んだ!

[ヴィーナス05月18日号]

主君・織田信長を本能寺の変で殺害した明智光秀。その動機も謎とされているが、さらに謎と言われているのが、その生死について。
そんな中、最近、ささやかれているのが、明智光秀は山崎の合戦で豊臣秀吉に殺されていない、と言うものだ。
しかも、その証拠として明智光秀が山崎の合戦のはるかあとに、ある寺に寄進した石灯籠があるという。
そこでヴィーナス探検隊が噂の地・滋賀県坂本市に急行。現地の人々に取材をしつつ、真相を探った!

明智光秀は山崎の合戦で死ななかった!

坂本(滋賀県大津市)の長寿院という寺に、ナント、慶長220年(1615)2月17日に明智光秀が寄進した石灯籠があるという。

慶長20年といえば、光秀を山崎の合戦で破った豊臣家が滅亡した年。
つまり、光秀は憎っくき豊臣家の滅亡をその目で見たというのだから一大事。
歴史的大発見だ!

ただ、本当に長寿院という寺が存在し、そこに光秀寄進の石灯籠があるのだろうか。
この光秀「不死伝説」の謎を解き明かすべく、いつもはくだらない取材ばかりに出向くヴィーナス探検隊が大まじめに出動!

新幹線に飛び乗り、京都駅で借りたレンタカーで琵琶湖の湖西方面を目指し、国道161号線を北上した。

不死伝説に挑む前に、やはり、ここは主役の光秀公ゆかりの地を巡っておこうと、探検隊はまず坂本城跡を訪ねた。
今回、我々だけでも不安だと思ったのか、編集長の命令で歴史家の跡部蛮氏も同行することに。

「信長が比叡山を焼き討ちにした際、僧俗問わず撫で斬りにしろと配下の諸将へ命じます。光秀はその信長の命を忠実に守り、彼は焼き討ち後、比叡山の麓に広がる坂本の地に城をたまわり、比叡山を監視することになりました」(跡部氏)
それが坂本城だ。

「城は琵琶湖に面した水城で、本丸の石垣は湖水に洗われていました」(前同)

しかし、現在は三の丸跡に「坂本城址」の石碑が建ち、本丸の南に「坂本城址公園」として整備された広場に、光秀公の石像などがあるのみ。
もう少し当時の坂本城を偲べる遺構はないものか。

まずはそこから、周辺の聞き込み調査を開始。
すると、湖岸を走る国道161号線沿いの食堂で、隊員の一人が不思議なものを見つけた。
食堂奥の壁に、額縁入りのイラスト画が大切そうに掲げられている。
それは明らかに坂本城のイラスト画。

天守閣が聳そびえる本丸の復元図だった。
湖に面した石垣の一部を切って城門が琵琶湖に向かって開き、そこから兵の乗った舟が湖面や本丸内の入り堀へ自由に出入りする光景が描かれている。
まさに、"水の城"である坂本城のありし日の姿を偲べるイラストだ。

店主に話を聞くと、
「平成6年に琵琶湖大渇水というのがありまして。琵琶湖の水が干上がって、坂本城の石垣の一部が水面から顔を出したんです。その時の石垣をもとに、ある画家が坂本城の想像図として書いたんが、それですわ」

もちろん、琵琶湖の水位が元に戻ると石垣は湖面に隠れた。
今も、それは琵琶湖の底に沈んでいるという。

まさに、謎めいた光秀公の不死伝説を探るに相応しい旅の幕開けとなった。

さて、ここからがいよいよ本番。
まず、長寿院という寺を探さなければならないが、市販される地図のどこを探しても記載されていないのだ。

それまで坂本の歴史について語ってくれた食堂の店主に聞いても、
「長寿院?わかりませんなあ」
というのみ。
本当に長寿院は存在するのか。

坂本城の往時を偲ぶことができた探検隊だが、一同の表情に不安の影が差し始める……。
「石灯籠を寄進した"光秀"と同一人物かどうかはわかりませんが、江戸時代の比叡山のガイドブックに、長寿院という横川の塔頭が記載されています。その第二代目の院主が法印権大僧都是春という人で、俗名が光秀だったんです」(前出・跡部氏)

その二代目院主(俗名・光秀)が石灯籠を寄進した光秀だとすると、辻褄が合う。

その長寿院が比叡山・横川の塔頭だというのが、第二の手がかりだ。

地元で確認すると、坂本から横川の元三大師堂へ通じる山道があり、その途中に飯室不動堂という千日回峰行(比叡山の各峰を巡る荒行)で有名な横川の聖地があるという。
「長寿院という寺があるとしたら、その飯室不動堂の境内のどこかと違うやろか」(地元の事情通)

一行は、すぐさま車に飛び乗った。
坂本の奥まったところに聖徳太子創建の西教寺という古刹があり、そこには光秀公一族の墓がある。
飯室不動堂への道は、その西教寺から続いているという。

西教寺を過ぎると、まばらに見えた民家も消え、道はより狭くなり、山道に入ってゆく。
車がすれ違うスペースもない。探検隊の誰もが小型車を借りてきてよかったと思い始めた頃、右手に崖が現れた。

ここでハンドル操作を誤ったら、命の保障はない。
緊迫する一行。

やがて道は、鬱蒼と生い茂る木立の中に入ってゆく。
この先に、不動堂のような仏教施設があるとは、とても思えない。
口にはしないものの、一行の表情はみな、硬かった。

そのときだ。
「あった!」

木立の中に、少し開けた土地が確認できた。
木の間越しに不動堂の堂舎の一部も確認できる。
一行に安堵の表情が広がる。


目的の寺にアポなし取材敢行

車を降りると、我々、探検隊の足音と息遣いだけを残し、境内は森閑としていた。まずは、境内の案内板を確認する。

本堂にあたる不動堂や庫裏、地蔵堂などの堂舎がいくつかあって、境内はかなり広い。ところが、護摩堂、書庫……と案内板を追ううちに、不安が高まる。
そして、それは現実になる。

「長寿院がない!」のだ。

そのとき、探検隊の一人が長い石段の両脇に立ち並ぶ石灯籠の一群を発見した。
しかし、どの石灯篭も昭和に寄進されたものばかり。

もはや、万事休す。
こうなったら、仏様にすがるしかない。
まず不動堂で手を合わせてから、この寺にアポなし取材を敢行した。

「事前に取材の約束はしていなかったんですが、光秀公が江戸時代の初めに寄進した石灯籠があると聞いてやってきました」
と事情を説明するや、
「ありますよ」
応対してくれた僧が、あっさり認めるではないか。

どうやら、長寿院はこの飯室不動堂の塔頭の一つで、その建物は庫裏として使われているようだ。
しかし、
「(光秀寄進の石灯籠は)あるにはありますが、公開していないんです。したがって、お見せできません」
噂が噂を呼び、戦国ファンが、その石灯籠目当てに訪ねてくるのだという。

「申し訳ないですが、大切な文化財ですので。一般公開して、傷つけられようなことになったら取り返しがつきませんから」
ということは――。
「はい。そこには皆さんが仰る年号と寄進者の名が刻まれています。石灯籠そのものも相当古いものです」

やった――!
ついに見つけたのだ。
これで歴史は変わるのか!

跡部氏が続ける。
「信長の命で比叡山を撫で斬りにした光秀が山崎の合戦後、それまでの人生を悔い改め、比叡山で出家して長寿院の院主に収まり、石灯籠を寄進したというストーリーは、たしかに成り立ちます。だとすると、前半生が不明な天台僧の天海大僧正(徳川家康の参謀)を光秀だとする伝説も、同じ天台僧という共通点が生まれることになります。ただし、長寿院主の法印権大僧正是春(前出)が光秀だとすると、石灯籠を寄進したとき、すでに100歳。自身の長寿を寿いで寄進したと考えることもできますが、果たしてどうでしょう」

"長寿の光秀"と長寿院。
語呂もピッタリ嵌り、この噂、まんざらでもないのでは……。
久しぶりに(というか初めて)成げ果を上た探検隊の取材は続く!

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