陸軍創始者は「なぜ殺されたのか」?大村益次郎「暗殺劇の黒幕と動機」の画像
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 東京・九段にある靖國神社の参道に国内初の西洋式銅像が建っている。高さ12メートルの大村益次郎像だ。

 益次郎は戊辰戦争などで長州藩兵を指揮した幕末の西洋兵学者で、“陸軍の創始者”ともされる偉人。

 維新十傑の一人にも数えられる一方、歴史の変革期に足跡を残した期間は短く、明治二年(1869)、新政府の兵部省初代大輔(次官)に就任して間もなく刺客の襲撃に遭い、その傷が元でこの世を去った。

 益次郎はいったい、なぜ殺されたのか。その死には今も多くの謎がつきまとう。

 益次郎は文政七年(1824)に周防国鋳銭司村(山口市)で、医師の村田孝益の長男に生まれ、近代医学の祖と評される蘭学者の緒方洪庵が開いた適塾(大阪市)で学んだ。

 ただ、資質に欠けて“藪医者”だったとされる反面、語学の才能には恵まれ、兵書の内容を次々に吸収。

 実際、父母を養うために帰郷して開業したものの、うまくいかず、やがて宇和島藩に迎えられ、西洋兵書の翻訳や軍艦製造に当たった。

 その後、江戸に出ると、幕府の蕃書調所(のちの洋書調所)教授手伝を経て、講武所(幕末に設置された幕府の武術修練所)で兵学を教えた。

 次第にそんな彼の噂が長州藩士である桂小五郎(のちの木戸孝允)の耳に入り、幕府大老の井伊直弼が桜田門外で殺害された万延元年(1860)、益次郎は三七歳で長州藩に迎えられた。

 長州藩はその後、禁門の変で朝敵となり、一度は幕府に恭順の意を示したが、指導部が幕府強硬派に交代すると、薩摩藩と同盟。密かに軍備を増強した。

 こうして慶応二年(1866)六月、四境戦争が勃発。藩領の芸州口(広島方面)、石州口(島根方面)、小倉口、大島口(瀬戸内海の周防大島方面)の四方面から幕府軍が攻め寄せてきた。

 この四境を城にたとえると、芸州口と小倉口が大手に当たり、益次郎が参謀となった石州口は絡め手。

 彼の評価も当時はまだ、その程度だったものの、この戦いで浜田藩、福山藩、鳥取藩、松江藩、津和野藩、紀州藩からなる幕府軍に大打撃を与え、兵学者として名を挙げた。

 その門人や同僚らの証言記録『大山益次郎先生事績』(以下=『事績』)によると、益次郎はこのとき、従者に持たせた長い梯子で屋根に登り、つぶさに土地の形勢を眺めて的確に軍を動かしたという。

 こうして世に出た益次郎の次の活躍の舞台が江戸。幕府が瓦解し、旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が始まると、彼は慶応四年(1868)四月、江戸城に乗り込んだ。

 江戸城には当時、無血開城に導いた薩摩藩の西郷隆盛ら新政府軍の幹部が入り、その中に東海道総督府参謀の海江田信義がいた。

 益次郎はその海江田と、上野を拠点とする彰義隊(旧幕府の旗本らの子弟)への対応を巡って激しく対立。

 この海江田は薩摩藩内の尊王攘夷派だった精忠組に加わり、生麦村(横浜市)の外国人殺傷事件でイギリス人商人に止めを刺した血の気の多い男だった。『事績』によると、彼はこのとき、現状の兵力で彰義隊に攻撃を仕掛けることは無謀と主張。

 益次郎が「そのような心配はない。充分に戦いくさできることは益次郎が請け合います。無謀だというのは戦を知らぬ者がいうこと」と言ったことで、海江田は激怒したといわれる。

 このとき、同席していた総督府の公卿らが二人の喧嘩に身を小さくしていたところ、西郷が海江田の怒りを鎮めて彰義隊の討伐を決定したが、益次郎と海江田らは夜襲か否かの作戦面で再び対立。

 夜襲案を益次郎が退け、こうして五月一五日、新政府軍は白昼、彰義隊が籠もる上野を攻めた。

 当時、多大な被害が想定された黒門口に薩摩兵を配置したことから西郷が「薩兵を皆殺しにするつもりか」とただすと、益次郎は黙って扇子を開閉して天を仰ぎ、「しかり」と呟いたと長州側の史料にはある。

 実際は薩摩側が望んだ配置だったようだが、上野戦争終結後、西郷が急遽、帰国すると言い出して総督府内が騒然した際、益次郎はひと言だけ挨拶して別れたとの回顧談もある。

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