二代目は没年後も生き延びた説で「堀越公方」滅亡時期の最終結論!の画像
写真はイメージです

「延徳三年(1491)に滅亡」

 室町幕府が伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)に置いた東国支配機関である「堀越公方」について、歴史の教科書にはこれまで、こう書かれてきた。

 初代堀越公方だった足利政知の子である茶々丸が、この年に自害したとされてきたためだ。

 だが、渦中の茶々丸は近年の研究により、その後も生き延びていたことが判明。堀越公方の滅亡時期が従来の説から、その“7年後”に書き換わる可能性まで出てきたのだ。

 室町時代、関東八ヶ国に伊豆と甲斐を加えた一〇ヶ国を統治する鎌倉公方の足利持氏が永享の乱で幕府軍に敗れると、子供の成氏が復権し、彼は補佐役である関東管領の上杉憲忠を殺害し、追討を受けることになった。

 彼は下総国古河(茨城県古河市)に逃れ、当時の将軍・足利義政が古河公方と称した彼に対抗するため、自身の弟である政知を関東に派遣した。

 その政知は長禄二年(1458)、京を発って下向したものの、鎌倉に入ることができず、伊豆堀越に留まった。

 それは当時、関東の国衆にとって「公方様」といえば成氏を指し、古河公方に依然として勢いがあったためだ。

 実際、関東の国衆は政知を「伊豆主君」などと呼んで公方とは認めなかった。そこで彼は箱根山を越えて鎌倉に入ることを計画。

 だが、将軍の義政は弟の行動を軽率とたしなめ、国衆が彼に従わない中で軍事行動を起こすことは時期尚早と判断したのだろう。

 こうした中、応仁の乱が勃発したことから幕府も成氏の追討どころではなくなり、文明一四年(1482)に彼と和睦。

 幕府が結果的に古河公方の存在を認めたことから政知ははしごを外され、文字通り伊豆主君に成り下がった。

 政知は結局、公方らしいことを何もできないまま延徳三年四月に、この世を去った。

 一方、前述の茶々丸はこのとき、一五歳。通説によると、継母は当時、一二歳だった潤童子を後継ぎにしようと考え、政知に生前、茶々丸の酒癖の悪さを大げさに伝え、彼は牢に押し込められていた。

 だが、茶々丸は自身に同情した者から密かに小刀を受け取ると、牢番を斬り殺して脱獄。継母と異母弟の潤童子を殺害したばかりか、御所から逃れた父を兵とともに追い掛けて自害に追い込んだという。

 ただ、政知は実際には病死だ。その確実な史料もある。

 とはいえ、茶々丸が父の死後、二人を殺害したことは確かだろう。

 彼はこうして強引に堀越公方の二代目の地位を手に入れると、近臣の讒言を信じて老臣らを討ち、伊豆は大混乱。

 そこに登場したのが氏素性が謎に包まれていた素浪人の伊勢新九郎盛時だ。のちに北条早雲と呼ばれた戦国武将である。

 彼はかつて伊豆を足掛かりに相模を制し、関東で五代にわたった小田原北条氏の礎を築いた下克上の英雄とされてきた。

 昨今、その彼に関する史料が大幅に読み直され、戦国の素浪人は一転、幕府政所執事を務める名門伊勢氏の一族となった。

 早雲はやがて、姉が嫁いだ駿河今川氏の内紛を収めた功績から、東駿河の興国寺城(静岡県沼津市)を与えられ、隣国の混乱に乗じて伊豆に攻め入り、堀越御所を襲撃した。

 茶々丸が近くの願成就院で自害し、合戦記の『足利季世記』などに基づき、これは延徳三年の出来事とされてきた。

 だが、当時の記録である『勝山記』に早雲の伊豆攻略が明応二年(1493)と記されていたことで、茶々丸の自害も二年遅れだったとする説が浮上。しかも、同年には京で「明応の政変」と呼ばれるクーデターが起きている。

 幕府管領だった細川政元が将軍を傀儡化しようと足利義材を廃立し、茶々丸が殺した潤童子の実兄であり、京の天竜寺の塔頭香厳院で僧籍に入っていた清晃を還俗させ、十一代将軍の義澄として擁立した事件だ。

 その新将軍にとって茶々丸は二年前、実母を殺害された仇敵。

 かたや伊豆に攻め入った早雲は幕府政所執事の伊勢一族で、彼が京の動きと連動し、いわば新将軍の命を受けて継母殺しの罪で茶々丸を討ち取ったと今では解釈されている。

 堀越公方はこうして、明応の政変の一環として滅亡したと理解されるようになった。

  1. 1
  2. 2