戦国関東の覇権を決定づけた奇襲「河越夜戦」は本当にあったのか!?の画像
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 天文一五年(1545)四月、武蔵国の河越で戦国時代を代表する合戦の火蓋が切られた。当時、関東で「御所様」と崇められた古河公方の事実上の滅亡を招いた歴史的大事件である。

 だが、その実態は不明瞭で、史料も少ないことから存在そのものを疑問視する見方もある。はたして合戦は本当にあったのか。

 古河公方はもともと関東公方、あるいは鎌倉公方と呼ばれ、室町幕府の地方行政機関である鎌倉府のトップだった。

 だが、足利尊氏の三男である基氏から数えて四代目に当たる持氏が将軍に対抗意識を燃やしたことで、幕府の追討を受けて敗死。関東公方は一度、滅亡した(永享の乱)。

 その後、持氏の遺児だった足利成氏が公方に任じられて復権したものの、執事役だった関東管領の山内上杉憲忠を殺害。

 再び幕府の追討を受け、下総国古河(茨城県古河市)に本拠を移し、成氏が初代古河公方となった。

 古河公方は当初、周辺の武将の支持もあり、関東管領だった山内上杉氏や扇谷上杉氏らを窮地に追い込んだ(享徳の乱)反面、二代の政氏から四代の晴氏まで父子や兄弟の内紛が続き、勢力が急速に衰退。

 ただ、「御所様」としての権威は健在で、小田原北条氏が関東平定のために古河公方に接近し、晴氏は北条氏綱の手を借り、小お弓ゆみ公方と称して分派した叔父を下総国国府台(千葉県市川市)で討った。

 とはいえ、晴氏は氏綱の娘を妻に迎えたものの、もはや北条の力を借りなければ勢力を維持することもままならないほどに落ちぶれ、こうした中、河越合戦が勃発する。

 北条氏綱はその前に扇谷上杉氏の居城だった江戸城を奪い取り、岩槻や河越の拠点を相次いで攻略。慌てた扇谷上杉朝定が、敵将の氏綱が没し、その嫡男である氏康に代替わりしたタイミングで巻き返しを図り、関東管領の山内上杉憲政との連合に成功した。

 一方、古河公方の晴氏は北条陣営にとどまる選択肢もあったが、駿河の今川氏が北条包囲網に加入したことで、天文一四年(1544)一〇月、扇谷上杉と山内上杉とともに河越城の奪回を図って包囲。この選択が、まさに命取りとなる。

 軍記物の『関八州古戦録』によれば、その連合軍の勢力は八万とされ、一方の北条氏康は今川氏と国境紛争を抱え、八〇〇〇の軍勢を率いて河越城を後詰めするのに精いっぱいだった。

 まさに多勢に無勢であり、氏康は連合軍を油断させる謀略を巡らせ、義弟である晴氏ら敵将に「お慈悲をもってご退陣願いたい」と使者を派遣。

 連合軍は二万の兵を向けたが、氏康が一度は退却する気配を見せたことで、彼を臆病者と見下して軍を引き揚げた。

 すると、氏康はこの敵の油断をつき、天文一五年四月二〇日に夜襲を決行。かつて「河越夜戦」と呼ばれたのは、そのためだ。

 氏康は兵に当時、「敵の首は討ち捨にせよ」と命じ、彼らの肩衣に味方であることを示す白い布をつけさせ、さらに兜や鎧も脱がせ、午前零時の突撃を命令。

 連合軍は不意を突かれ、裸のままで逃げ出す兵も現れ、扇谷上杉朝定が討ち死にし、河越城に籠城していた北条方の将兵が逆襲に転じたことで、戦死者は一万三〇〇〇余に及んだという。

 扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉憲政は本国の上野国に逃げ帰ったものの、やがて氏康に圧迫され、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に亡命。

 一方、古河公方は北条氏の傀儡となり果て、氏康が関東の覇権を手にした。

 ただ、この合戦は前述のように存在自体を否定する見方もあり、実際に謎だらけ。

 確かに古河公方が北条の一〇倍の軍勢を擁しながらも夜襲に遭い、無様な敗亡を遂げたとずれば、「御所様」の権威が地に落ち、関東諸将の失望を買ったとしても不思議ではない。

 だが、そもそも夜戦ではなく、白昼の合戦だったと示す記録も存在。合戦の年月も史料によってまちまちで、『関東古戦録』が北条の陣所を「砂窪」とする一方、これを上杉方の陣所とする軍記もある。

 ではなぜ、史料によって、こうした違いがあるのか。導き出される答えは一つだ。

 それは北条と上杉が頻繁に河越城の争奪戦を繰り広げ、複数の合戦エピソードが派手な夜襲に集約されたという解釈だ。

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