今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。執権政治を確立させた北条義時が主人公で、劇中、その“初恋”の相手とされているのが「八重姫」である。
彼女は鎌倉幕府を率いる武家の棟梁「鎌倉殿」の初代である源頼朝の“最初の妻”ともされ、複数の物語類にも登場。ただ、当時や後世の編纂史料に、その存在がないことから“伝説”の人物ともいわれる。
確かに頼朝の妻といえば、どうしても御台所(正室)である北条政子のイメージが強い。
それでも『曾我物語』には三人を巡る逸話が、いくつも登場。中には史料では確認することができない内容も少なくない。
はたして八重姫は実在したのか。その謎を紐解くと、鎌倉殿と二人の妻の数奇な三角関係が浮かび上がる――。
『曾我物語』は鎌倉時代の「曾我兄弟の仇討ち」がテーマの伝記物語。「赤穂浪士の討ち入り」などとともに、日本の三大仇討ちに数えられる事件である。
そして、この復讐劇の端緒を開いた人物が当時、伊豆国伊東(静岡県伊東市)の豪族だった伊東祐親。八重姫の父である。
彼は当時、伊豆に配流されていた頼朝の監視役とされ、その三女が八重姫だった。
彼女は美人と評判で、頼朝との間に、やがて「千鶴御前」が生まれた。
だが、祐親は京における大番役の任務を終えて伊東に戻ると、千鶴御前を見て激怒。
「源氏の流人(頼朝)を婿に取り、平家にとがめられたら大変」と、三歳だった孫を簀巻きにして川に投げ入れた。
そして、八重姫と頼朝を別れさせると、彼女を「江間次郎」に嫁がせ、彼が義時であるという誤解に発展した。
義時は兄の宗時がいたため、北条氏庶流の江間氏を継ぐ立場だったからだ。
鎌倉時代成立の歴史書である『吾妻鏡』は実際、義時を「江間四郎」と記述。
その長男で後に執権となる泰時の生母が不明であることも手伝い、四郎が『曾我物語』の「江間次郎」と同一視され、八重姫が彼を産んだとされたのだ。
だが、『曾我物語』は一連のエピソードを安元元年(1175)の出来事とし、義時は当時、一三歳だったとする。
常識的に考えて結婚適齢期とは言えず、江間次郎は義時とは別の人物と考えられている。
一方、『曾我物語』によると、祐親は八重姫を孕ませた頼朝に怒りが収まらず、子供だけでなく彼の殺害も計画。
夜討ちに向けて郎党が掻き集められたが、頼朝は祐親の次男である祐清から計画を知らされ、北条館(静岡県伊豆の国市)に逃れて九死に一生を得た。
祐清が頼朝の乳母である比企尼の娘を妻としていたからだ。
とはいえ、頼朝が当時、二一歳だった政子とすぐに結ばれたわけではない。
彼は実際、彼女より二歳年下の妹に文、つまりラブレターを送っている。
同じ屋敷にいながら、なんともまどろっこしいアプローチにも思えるが、そこは今から千年近くも前のこと。
だが、手紙は結局、姉の政子に届いた。
頼朝からこれを託された側近の武士が独断で宛名を書き換えたためだ。むろん、頼朝の将来を考えてのことだろう。
頼朝は、こうして政子と付き合い始め、その翌年には長女の大姫が誕生する。
だが、このときも父の反対が大きな障害となった。こうした点は現代にも通じるものがあるのではないだろうか。
実際、大番役を終えて帰国した政子の父・時政は二人の関係を知り、やはり平家に対する忖度から、娘を伊豆の目代だった山木兼隆に嫁がせた。
だが、恋路は今も昔も反対されればされるほど、逆に燃え上がるというもの。
政子は頼朝と交わした契りを忘れることができず、兼隆の屋敷から脱走。
彼は政子の後を追いかけたものの、どうすることもできず、そうこうするうちに彼女と頼朝の関係は既成事実化し、時政も認めざるを得なくなった。
ただ、政子と兼隆の結婚は史実に反する。