「傾城」――権力者が文字通り城を傾けてしまうほど、つまり国を滅ぼすくらいに夢中になる「絶世の美女」を指す言葉である。
世界三大美人の一人とされる中国の楊貴妃などが代表的で、国内では南北朝の争乱期に奇しくも、この表現がぴたりと合う人物が二人いた。
その一人が勾当内侍(こうとうのないし) 。軍記物語『太平記』などで、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が骨抜きにされたといわれる女性である。
一方、後醍醐天皇の后から寵愛を奪い取ったとされるのが阿野廉子(あのれんし) 。やはり同書で傾城の“悪女”として描かれている存在だ。
はたして、二人は本当に男を溺れさせた魔性の女だったのか――。
まず、勾当内侍は『太平記』によれば、世尊寺経尹という公卿の娘で、一六歳の頃から宮仕えし、「天下第一の美女」と評された。
一方、鎌倉を攻め落とした新田義貞は元弘三年(1333)、その勲功によって後醍醐天皇の新政権(建武の中興政府)で、武者所の長官に就任。
そんなある夜、彼は内裏を警護中、琴の音色に釣られ、天皇の日常の御殿である清涼殿と公式儀式を行う紫宸殿の間に架け渡された長橋のあたりに足を踏み入れた。
そこには天皇に奏請を行う掌侍という女官の局(部屋)があり、彼女たちの主席ポストが勾当。琴を弾いていたのが、勾当内侍だった。
義貞はこのとき、彼女の美しさに動くことすらできずに一目惚れ。
その後も彼女を忘れることができず、ラブレターを送ったものの、使者の者に「ミカドをはばかってお受け取りになられません」といわれてしまった。
確かに相手は天皇に仕える身。とはいえ、障害が多いほど余計に燃え上がるのが恋心というもの。
義貞はやがて、その思いを知った後醍醐天皇から遊宴に呼ばれ、盃を与えられると同時に、「さほど思い詰めているのなら、勾当内侍をこの盃に添えて与えよう」と告げられた。
義貞はこうして彼女を妻とし、『太平記』にはその傾城ぶりを物語る次のエピソードもある。
義貞は建武三年(1336)、政権から離反した足利尊氏を北畠顕家らとともに京都から追い落としたものの、追撃を怠ったとして非難された。
勾当内侍との別れを惜しみ、その機を逃したとされたからだ。
結局、尊氏らは九州に逃れたあと、軍勢を立て直して再び京に進攻。
義貞らが敗れたことで後醍醐天皇は吉野に逃れ、建武の新政府も崩壊した。
勾当内侍が傾城の美女とされる根拠の一つである。
実際、義貞が尊氏追討の宣旨を受けながらも、出陣が遅れたことは確か。
ただ、その一方で、当時、彼の健康状態は優れず、勾当内侍にうつつを抜かしていたとする『太平記』にも、彼が「瘧病の心地」だったと書かれている。
この瘧はマラリアに似た熱病のことで、悪寒や震えを伴う。義貞はそのため、一族の者を先発させた。
つまり、彼は恋の病にうなされていたわけではなく、正真正銘の病に苦しめられていたことになり、勾当内侍を傾城の美女とする表現が必ずしも正しいとは言えなくなる。
一方、阿野廉子はどうか。彼女は公卿の阿野公廉の娘で、のちに従三位に叙せられて「三位の局」と呼ばれ、やはり『太平記』によって悪女に仕立て上げられた。
そんな彼女は後醍醐天皇の中宮(后)だった藤原禧き子しの入内に従い、内裏に入って女官となり、「(後醍醐天皇が)この女官を一目ご覧になって特別に寵愛なさり、後宮の並み居る美女たちも顔色を失った」とされる。
むろん、中宮も後醍醐天皇から袖にされた一人とされ、同書はその情愛を「木の葉よりも薄くなった」と表現。
だが、花園天皇の日記である『花園院宸記』には後醍醐天皇が独身時代、密かに禧子を盗み取ったとあり、実際はむしろ、彼女を愛し続けたと言える。
後醍醐がまさに盗み取るほどまでに熱心に彼女の元に通い詰め、やがて彼女の妊娠が判明したことから入内させたとも言え、当時の歴史物語である『増鏡』は実際、二人の夫婦関係を円満と表現。
禧子は元弘三年、鎌倉幕府が倒れて後醍醐天皇の念願がかなって間もなく病没。