「戊辰戦争」に東北を巻き込んだ!?世良修蔵「会津戦争の元凶説」真相の画像
写真はイメージです

 一年半に及ぶ明治新政府軍と旧幕府軍の内戦(戊辰戦争)の中で最も激しかったのが東北戦争だ。

 明治元年(1868)九月二二日の会津落城でほぼ終結したため、会津戦争とも呼ばれ、少年兵の白虎隊(最終ページのコラム参照)が集団で自刃した悲劇はあまりにも有名だ。

 その東北戦争の開戦は、たった一人の男の相次ぐ暴言に東北諸藩の怒りが爆発した結果とされる。その名は長州藩士世良修蔵。彼は瀬戸内海に浮かぶ周防大島(山口県)の庄屋のせがれ。身分を問わない民兵組織の一つ、第二奇兵隊の軍監として頭角を現した成り上がり者だ。

 その彼が奥州鎮撫総督府の下参謀に任じられた。参謀には公卿がついていたものの、その部下にあたる下参謀が実権を握り、修蔵と大山格之助(のちの巌=薩摩藩)がその職にあった。特に修蔵は権力をみせびらかすところがあり、新政府の威を借りて仙台藩士を“うつけ(愚か者)”呼ばわり。

 あろうことか仙台藩主をも罵倒し、相次ぐ暴言の果てに殺害され、そのことが契機となって東北戦争の戦端が開かれたとされる。

 しかし、彼一人に東北戦争の責任を押しつけることはできない。通説を振り返りつつ、その辺りの事情を確認してみたい。

 戊辰戦争の緒戦が鳥羽伏見(京都市)で旧幕府軍の敗北に終わり、その余燼が燻くすぶる慶応四年(九月八日に明治元年に改元)一月一七日、新政府から仙台藩に会津藩追討の命が下された。

 その理由は、会津藩主松平容か た保も りが京都守護職として幕府に反発する長州藩士や志士らを弾圧し、彼らの恨みを買っていたからだ。

 一方、仙台藩の公式の表高は六二万石だが、領内の検地で実際に算出された内高(実際の石高)は一〇〇万石といわれ、そんな名実ともに東北の雄藩が喜んで会津追討の先棒を担いでくれたら他の東北諸藩も追随する――新政府がそう考えたとしても不思議ではない。

 三月一八日には会津追討のための奥州鎮撫総督府一行五〇〇名を乗せた船が松島湾に錨を下ろし、二三日に仙台入り。一行は仙台藩の藩校(養賢堂)を宿舎とした。

  1. 1
  2. 2
  3. 3