新選組に敵意を燃やし続けた男!土佐藩士・谷干城「龍馬との関係」の画像
写真はイメージです

 土佐藩出身の谷干城――明治一〇年(1877)の西南戦争の際に新政府軍の熊本鎮台司令官として、西郷隆盛率いる旧薩摩軍の猛攻から熊本城を死守した軍人として知られ、政治家に転身したあとは、明治一八年(1885)の内閣制度発足とともに初代農商務大臣になった人物だ。

 しかし、彼は新政府で成し遂げた業績よりもむしろ、「生涯、新選組に敵意を燃やし続けた男」として名をはせているのではなかろうか。

 新選組は幕末に京都守護職になった会津藩主・松平容保の下で、尊王攘夷派の志士を斬りまくった組織。土佐藩士の多くが彼らの刃にかかり、維新実現を前に憤死した。

 旧土佐藩士ほぼすべての人の恨みを買っているといえるが、干城の場合、徹底していた。

 どうしてそこまで新選組に敵意をむき出しにしたのか。

 謎を解くカギは土佐脱藩浪士の坂本龍馬との交友関係にある。

 干城の生涯を辿りつつ、その謎を探ってみよう。天保八年(1837)、のちに父が上士 (身分の高い藩士)となる家に生まれた彼は、二〇代前半の頃、江戸で学問を修め、帰藩の途上、大坂で土佐藩内の尊攘派の指導者である武市半平太に会い、その思想に感化された。どうやら彼は人に影響されやすい性格らしい。

 帰藩後の文久二年(1862)三月、干城は新たに設けられた藩士教育機関の文武館(のちの致道館)史学助教となったが、翌月には、開国の方針を示した藩の参政・吉田東洋暗殺の疑いを掛けられてしまう。

 実際には武市の命で土佐勤王党(下級藩士らで結成された尊攘派集団)のメンバーが吉田の帰宅途上を狙い、殺害した事件だったが、その容疑者に間違われたのだから、この頃、干城もいっぱしの尊攘派志士になっていた証拠だ。

 しかし、翌文久三年(1863)八月に攘夷を唱える長州藩が京を追われると、藩内でも武市らが投獄されて時代の空気が変わり始めた。

 それでも干城は攘夷思想を捨て切れず、なおも長州藩を擁護。そのことが災いし、久礼浦(高知県中土佐町)にある陣屋勤めへと左遷されてしまう。

 その後、致道館助教に復帰した彼は慶応二年(1866)一二月、長崎出張を命じられ、そこで坂本龍馬と土佐藩士の後藤象二郎に会う。

 龍馬は当時、亀山社中という商社を率い、象二郎は藩の参政として長崎貿易に関わっていた。

 このとき、龍馬らに会った干城は「討幕を優先し、攘夷は後回しにすべきだ」と諭され、「初めて攘夷の不可を感じた」と手記(『谷干城遺稿』)に残し、尊王攘夷から開国討幕派に鞍替えした。

 干城はよほど、このときの龍馬の話が心に染みたらしい。

 すぐさま外国事情を知るため長崎から上海へ渡り、翌慶応三年(1867)三月、土佐へ帰ったあと、藩の重役に「海軍を持ちましょう」と献策した。海軍の創設は龍馬の持論。それだけ彼の思想に傾倒していたのだ。

 ところが、その年の一一月一五日夜、京の土佐藩邸ご用達の醤油問屋「近江屋」(三条河原町下ル蛸薬師)に投宿していた龍馬が土佐藩出身の脱藩浪士、中岡慎太郎とともに殺害された。

 近江屋からすぐ近くに投宿していた干城が凶報を聞き、現場に駆けつけると、慎太郎だけがまだ生きていた。彼も干城も武力討幕派。そこで慎太郎は「早く(討幕を)実現しなければ君らもやられるぞ」(『谷干城遺稿』)と言い残した。

 幕府で龍馬と慎太郎を殺害する組織といえば新選組――犯人の捜索に乗り出した干城は龍馬殺害の下手人をそう断定した。

 まず、慎太郎を斬った刺客が残した「こなくそ!」という伊予(愛媛)の訛り。そして、刺客が現場に残した先斗と町の料亭「瓢亭」の下駄一足と刀の鞘。「前夜、新選組の者に下駄を貸した」という瓢亭の主人の証言の他、刀の鞘も伊予出身の新選組隊士、原田左之助のものだと告げる者が現われた。

 このあと、龍馬を敬愛する干城が新選組をつけ狙うのは当然だった。

  1. 1
  2. 2