■「龍馬殺害」の実行犯は新選組と主張し続けた
やがて維新が実現し、明治元年(1868)三月、彼は新政府軍の征東大総督府大軍監として、東山道から甲州街道を経て江戸の内藤新宿(現新宿区)に入った。
翌四月、その干城の耳に、流山(千葉県)で大久保大和という旧幕府軍の幹部が捕縛されたという知らせが届いた。
やがて彼が新選組局長・近藤勇の変名だと判明。板橋の新政府軍本営の中に近藤の顔を見知っていたものがいたからだった。
この話を聞き、干城は「愉快というべきだ」(『谷干城遺稿』)と言い放ち、小躍りして板橋の本営まで飛んでいった。
しかし、近藤は新政府軍側の尋問に一貫して恭順の意を貫き、なかなか本音を吐こうとしない。
干城は拷問してでも新政府軍に有利な供述を引き出すべきだと主張したが、穏便に処置したいという薩摩藩出身の役人らに押し切られ、拷問を諦めるしかなかった。
薩摩藩側は「近藤の身柄を京に送るべき」だと主張したが、強行姿勢を崩さない干城に根負けし、近藤は板橋で斬首された。
これで干城は龍馬の仇を取ったと思ったのかもしれないが、実は、のちに龍馬を殺害したのは新選組でなかったことが明らかとなる。
明治二年(1869)の函館戦争に敗れた旧幕府軍の中に、今井信郎という元京都見廻組(旗本の次男・三男らで構成された浪士取り締まり組織)の隊士がいて、彼が投降後、龍馬暗殺の状況を語った供述書の存在が明らかになったからだ。
その後、干城は鎮台司令官や大臣まで経験して明治三七年(1904)に勃発した日露戦争では非戦論を唱えた。
そして、明治三九年(1906)、龍馬が眠る霊山護国神社(京都市東山区)で大演説をぶち、彼を斬ったと告白した今井を批判し、実行犯はあくまで新選組だったと主張。
干城はその五年後、七五歳で没するから、生涯、新選組が龍馬殺害の下手人だと思い込み、敵視し続けたことになる。