NHK大河ドラマ『青天を衝け』では草なぎ剛が熱演!「家康の再来」の評判は正しいか!?“最後の将軍”慶喜の実像【前編】の画像
NHK大河ドラマ『青天を衝け』で徳川慶喜を演じた草なぎ剛

 鎌倉時代から続く武家政権最後の将軍といえば、徳川慶喜。長州藩士の桂小五郎(のちの木戸孝允)が「(徳川)家康の再来を見るがごとし」(『回天実記』)と評した人物だ。

 慶喜の政敵である桂がなぜ、江戸幕府を開いた初代将軍の再来とまで言ったのか。二回にわたり、検証してみよう。

 慶喜は天保八年(1837)一〇月、水戸藩主斉昭の七男に生まれた。斉昭は彼の聡明さに期待し、当主が亡くなったばかりの一橋家(将軍の親戚に当たる御三卿の一つ)へ養子に出し、病弱な一三代将軍徳川家定の後継に推したが、当時の大老井伊直弼に押し切られ、紀州藩出身の家茂が一四代将軍に就いた。政争に敗れた斉昭は処罰され、連座する形で慶喜も謹慎のうえ、隠居させられた。

 しかし、桜田門外で井伊大老が水戸脱藩浪士らに討たれ、斉昭が死去したあと、文久二年(1862)七月、慶喜は一橋家の当主に復帰。

 勅命によって将軍後見職となるが、そこには薩摩藩主の父、島津久光の影響があった。久光が勅使と軍勢を率いて江戸へ出府し、慶喜の将軍後見職と前越前藩主松平春しゅん嶽が くの政治総裁職就任という人事を幕閣(老中ら)に認めさせたのだ。

 幕政改革実現のためとはいえ、外様大名(薩摩藩)が朝廷の権威を借りて幕閣を脅した形だ。

 慶喜も朝廷と外様藩の御み輿こしに担がれたわけだが、二六歳の彼はそこから綱渡りのような政治手腕を見せ、ときには剛腕と思える方法で二年後の元治元年(1864)三月、彼が後見職を辞任した頃には、幕府が政治の主導権を一時、回復していた。

 慶喜はどんな逆転劇を演じたのか。後見職就任の頃まで戻ってみよう。

 当時、「破約攘夷」といって、幕府が天皇の意思を無視して諸外国と結んだ通商条約をいったん破棄し、天皇も納得する形で結び直すという考えが台頭していた。

 しかし、慶喜は「それは国内でのみ通用する理屈であり、諸外国にその理屈は通じない。条約を破棄すれば戦争になるし、戦争になれば非はわが国にある」という考えだったため、上京して朝廷を説得することにいったん決定した。

 ところが、長州藩を後ろ盾に朝廷が江戸へ攘夷を求める勅使を送りつけ、このとき、京の情勢に詳しい前土佐藩主の山内容堂が「元来、攘夷は征夷大将軍の職掌なのだから、攘夷を拒めば、“攘将軍(つまりは討幕)”に及ぶ」と進言。慶喜は勅使が来る前に前言を撤回し、幕府の考えを「攘夷」へと変更してしまう。

 一方、予定されていた将軍家茂の上京に先立ち、その年の暮れに江戸を発った慶喜は翌文久三年(1863)正月に京に入り、公卿から執拗に攘夷の決行期限を迫られた。

 慶喜は初め、「四月中旬頃」と期限をぼかしていたが、将軍上洛後、もはや期限を曖昧にできず、四月二〇日になって、攘夷期限をわずか二〇日後の「五月一〇日」と通告した。

 これは、準備が間に合わなかったとあとで言いわけするための策。慶喜は四月二二日、攘夷決行のためと称し、京を発って江戸へ下ったが、もちろん、何もしない。攘夷が実行できなかった責任をかぶって将軍後見職の辞表を出したが、慰留されるのも計算づく。こうして彼の綱渡りが続く中、最悪の事態となった。

 長州藩が攘夷決行日に下関海峡を通る外国船を砲撃。続いて薩摩藩が生麦事件(コラム参照)の賠償を迫る英国艦隊と鹿児島湾で砲火を交え、城下が被害を受けながらも艦隊を追い払い、朝廷や攘夷派に賞賛されたのだ。

 夷狄を討つ役割の征夷大将軍の立場が薩摩や長州の外様藩に奪われた形で、幕府の面目は丸潰れ。そこで幕閣は横浜への外国船入港などを禁じる鎖港を図ろうとし、慶喜もそれに乗った。

 彼や幕閣の狙いは横浜鎖港を武器に、外様藩から政治の主導権を取り戻すこと。単なるポーズでないと示すため、一二月には談判のための使節を欧州へ派遣した。

 一方、その頃には京の政界に変化が生じ、薩摩藩が会津藩と組み、長州藩を京から追い落とすクーデターに成功していた。薩摩藩は京の政界での主導権を握ろうと、長州藩とは逆に、朝廷を攘夷から開国へ方針転換させようとしていた。

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