草なぎ剛がNHK大河ドラマで好演!「家康の再来」の評判は正しいか!?“最後の将軍”徳川慶喜の実像【後編】の画像
NHK大河ドラマで徳川慶喜を演じた草なぎ剛

「(徳川)家康の再来を見るがごとし」(『回天実記』)と、長州藩士の桂小五郎(のちの木戸孝允)に評された江戸幕府最後の将軍。

 前回に引き続き、徳川慶喜がなぜ、政敵である桂から賛辞とも言える評価を得たのか、理由を探っていこう。

 慶喜が将軍になったのは慶応二年(1866)一二月。それから、ほぼ一年。彼は島津久光(薩摩藩主の父)らの諸侯や朝廷を翻弄し、翌慶応三年(1867)一二月九日の王政復古のクーデターで幕府が消滅したあとも政治の主導権を渡さなかった。

 そんな慶喜が将軍になって初めて迎えた大きな政治課題が、兵庫港の開港問題だった。

 この時代の攘夷思想は、天皇が認めていない条約を破棄しようとするもの。したがって天皇が認めてしまえば、攘夷の大義名分は失われる。

 実は慶喜が将軍になる前の慶応元年(1865)九月、イギリス、フランス、オランダの三ヶ国連合艦隊が兵庫沖に軍艦を集結して条約の勅許を要求。朝廷はこの脅しに屈した。

 こうして攘夷の時代は終わり、一時、政治の主導権を取り戻すために慶喜らがポーズで進めた横浜鎖港問題(前号参照)も完全に吹っ飛んだ。

 それでも朝廷は、天皇がいる京都というべき兵庫の開港だけは認めなかった。

 一方、幕府が列強諸国に約束した慶応三年(1867)一二月七日の開港期限は迫っていた。薩摩藩はこの問題をネタに幕府を揺さぶり、対応の不手際を追及し、慶喜から政治の主導権を奪い返そうとした。

 まず、薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛らが画策して、久光を誘導して「四侯会議」を立ち上げさせた。

 これは幕府や朝廷に政策を提言するための組織で、四侯というのは前回に述べた「参与会議」とほぼ同じメンバー。久光の他、前越前藩主松平春嶽と前土佐藩主山内容堂、前宇和島藩主伊達宗城の四名だ。この四侯会議を幕府に代わる受け皿とし、薩摩藩が同会議を通じて政治を主導しようというのが大久保らのプラン。

 一方、慶喜は政治の実権を握り続けて幕府の権威を保つため、なんとか兵庫港開港の勅許を得ようとした。

 そこで、いろいろ条件をつけてくる久光らを論破すべく、当時、在城していた京の二条城へ招こうとした。

 しかし、参与会議を解散させた慶喜の手腕を知る久光は上京後もなかなか招きに応じない。ただ、いつまでも固辞するわけにはいかず、一ヶ月近くが経った五月一四日、ついに四人が慶喜の前に顔を揃えた。

 かつて酔った勢いで彼らに暴言を吐いた慶喜だが、この日は一転。低姿勢で夕食の用意を整え、さらには老中や若年寄ら幕閣に彼らの相伴役を命じ、夕食のあとは四人を庭に誘って記念写真まで撮った。

 その慶喜と四人の話し合いでは久光が異論を唱えたものの、やはり論破されていた。

 続いて二四日、午前一時から夜を徹した朝廷の会議に久光は姿を見せず、慶喜の独擅場となり、正午まで続いた会議で、ついに兵庫港開港勅許の内定を取りつけた。

 この剛腕とも言える彼の政治力に、敵対勢力である長州藩の桂も舌を巻いた。彼が「家康の再来」と評したのはこの頃だ。討幕勢力への注意を喚起すべく、あえて賛辞とも取れる評価を下したのだろう。

 確かに慶喜は参与会議や四侯会議で諸侯をわが意に従わせ、その意味では、戦国武将らを従わせて天下を獲った家康に比肩するという見方もできる。慶喜がいなければ、幕府はもっと早く倒れていただろう。

 だが、そう簡単に彼の思い通りに事は運ばない。このとき、薩長はかつての宿怨を超えて同盟を結び、密かに西洋式の軍備を整えていたからだ。大久保、西郷らは兵庫開港問題で失敗した結果、もはや、慶喜を政治の一線から引き下ろすには武力討幕しかないと腹を固めたのだ。

 その討幕路線も、慶喜が大政を朝廷に奉還すると表明し、一〇月一五日に朝廷がそれを受け入れると、封じ込められる形となった。

 しかし、薩摩を中心とする討幕勢力はすかさず次の手を打ってきた。一二月九日に実行したクーデターである。薩摩は幕府を廃止し、その受け皿としての新政権樹立を狙い、皇居の内外を藩兵などで固め、慶喜の参さん内だいを阻止する間にすべて決めてしまおうとした。

 一二月九日の会議では予定通り、摂政関白などの朝廷の旧制度と幕府が廃止された。公卿の岩倉具視が天皇の前で王政復古の大号令を読み上げ、新たに政治を担う三職(総裁、議ぎ定じょう、参与)も置かれた。

  1. 1
  2. 2