NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では新垣結衣や江口のりこも!4人の女性と浮き名を流した――“初代鎌倉殿”源頼朝「愛人伝説」の画像
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で八重姫を演じた新垣結衣

 英雄色を好むの例え通り、源頼朝は正室(御台所)の政子の他、少なくとも四人の女性と浮き名を流した。

 中には、その後の鎌倉幕府の命運を左右しかねない頼朝の子を産んだ女性もいた。「初代鎌倉殿(将軍)」の女性遍歴を辿ってみよう。

 まず、一人目は八重姫。NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』で新垣結衣が演じ、本連載でも何度か取り上げた伊東祐親の娘で、まだ頼朝が挙兵する前に男児の千鶴御前をもうけた。

 しかし、都の平清盛に忖度した祐親によって仲を引き裂かれ、千鶴御前は殺された。八重姫は『曾我物語』などに登場し、実在したと考えられている。

 二人目は亀の前。『鎌倉殿の13人』では江口のりこが演じた。頼朝挙兵の二年後、寿永元年(1182)一〇月のこと。政子が初めての男児(のちの二代将軍源頼家)を産所で出産し、大倉御所へ戻ってしばらく経った頃、頼朝が愛人の亀の前を伏見広綱という御家人の屋敷に囲っているという話を耳にした。継母の牧の方(時政の後妻)が告げ口したのだ。

 まず、激怒した政子が継母の父(あるいは兄)である牧宗親に命じ、広綱の屋敷を破却。亀の前は別のところへ逃れたものの、今度はその宅を訪ねた頼朝が事実を知って激怒し、政子への当てつけで宗親の髻もとどりまで切って辱めるという、凄まじい夫婦喧嘩に発展した。

 以上は、鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』に記載される話だから事実だろう。

 ちなみに、このとき頼朝は髻を切った宗親に「御台所(の命令を)を重んじるのは神妙」(『吾妻鏡』)と伝え、不倫という行動を反省したようにも受け取れるが、だからといって、その後、女性遍歴をやめたわけではない。御所に仕える丹後内侍という女性との間に男児をもうけたという噂があるからだ。

 伝承では、政子の悋気を恐れた丹後内侍は摂津住吉(大阪市)まで逃れて俄に産気づき、男児を出産。

 頼朝はのちにその話を聞き、成人したわが子に日向、薩摩、大隅の三ヶ国の守護職を与えたという。その男児こそが幕末の雄藩、薩摩藩主の先祖となる島津忠久だとされる。

 住吉大社には今も、丹後内侍が抱きかかえてその男児を産んだときの石が「誕生石」として残り、そこが島津氏発祥の地とされている。

 また、江戸時代に編述された『翁草』によると、頼朝は忠久を可愛がり、彼が九州へ下向する際、有名な十文字の家紋を与えたという。

 しかし、この話は戦国時代に島津氏が頼朝の血筋だと主張して広まった経緯があり、確実な史料によって確認できず、本当に彼女が頼朝の愛人だったかどうかは微妙だ。

 文治二年(1186)六月一〇日付の『吾妻鏡』に、病に倒れた丹後内侍を頼朝が密かに見舞ったという記事が掲載され、その事実が誤解を生んで彼女が頼朝とも浮き名を流すことになったのではないだろうか。

 確かに、御所仕えの女官の一人に過ぎない女性の病床を訪ねるという関係は尋常ではない。

 だが、丹後内侍は頼朝の乳母、比企尼の娘。配流時代に経済的支援を惜しまなかった尼に感謝していた頼朝がその娘を見舞ったとしても不思議ではない。

 しかし、もう一人、御所に仕えた大進局という女性は紛れもない頼朝の愛人で、男児をもうけた。

 父は伊達常陸入道念西という御家人。戦国武将の“独眼竜”こと伊達政宗の遠祖に当たる。

 政子は御所で大進局が出産することを許さず、若君誕生後も儀式はすべて省略させ、彼女を京へ追い払った。『吾妻鏡』の記述から事実とみられる。大進局への政子の仕打ちは悋気というより、御台所である自分と妾である彼女の立場の違いを明確にさせるためだろう。

 ともあれ、生まれた男児は御家人の一人に預けられ、彼は出家して京の仁和寺の僧隆暁に師事し、貞暁と名乗った。

 彼は後に行勝という著名な僧に学ぶために高野山に入るが、やがて鎌倉幕府の命運を左右する人物となる。

 頼朝の死後一九年目の建保六年(1218)、政子は熊野詣でに出掛けるが、彼女の本当の目的は宮将軍を迎えるための朝廷工作だった。

 三代将軍源実朝(頼朝と政子の次男)には世継がなく、源氏の血統が絶えた場合を想定し、天皇家から後継者を迎えようとしたのだ。

 だが、本筋で言うと四代将軍は頼朝の血筋であることが望ましく、政子は源氏の四代将軍誕生を諦めていなかった。

 そこで大進局との過去を封印し、その子の貞暁に白羽の矢を立てたのである。

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