NHK大河ドラマ『どうする家康』では松本潤が主演!徳川家康「重大転機の人質時代」と「“居城”岡崎城奪還」の舞台裏!の画像
松本潤

 来年のNHK大河ドラマどうする家康』は、生涯を通じて試練の連続だった徳川家康が人生の転換点でどのように決断するかが見どころだという。

 その家康が初めて迎えた人生の転換点が永禄三年(1560)。彼が一九歳のときだ。

 家康が人質となっていた駿河、遠江の戦国大名、今川義元が桶狭間の合戦で尾張の織田信長に敗れ、父祖代々の居城岡崎城(愛知県)を奪回する好機がやってきた。そのとき、家康はどうしたか。

 その選択がやがて家康の評価を高めることになるのだが、まずは、そこへ至る彼の人質時代に触れておこう。

 なぜなら、家康は人質時代に忍従を強いられ、彼の家臣たちもまた、辛酸を舐めたとされているからだ。

 本当にそうなのか。そして、岡崎城奪回の際に家康が下した決断とは――。

 家康が今川の人質になったのは天文一八年(1547)一一月、八歳のとき。その年の三月に父・広忠が岡崎城内で家臣に殺されて、三河は今川の管理下に置かれる。そこから家康の一一年間に及ぶ人質生活が始まった。

 その時代を象徴する話がある。家康の飼っていた鷹がしばしば、隣の孕はらみ石いし主も ん水ど (今川家臣)の屋敷の裏庭に紛れ込んだ。

 そのたびに家康が忍び入ると、居合わせた孕石から「三河の小倅にはあきれ果てたことよ……」という罵声を浴びせられたという。

 それから三〇年ほどのときが経ち、天正九年(1581)の高天神城(静岡県掛川市)攻防戦で家康と孕石は、駿府時代とは逆転した立場で再会。

 孕石が籠城していた高天神城は徳川勢に落とされ、家臣から彼が生け捕られたという報告を受けた家康「駿府時代、その孕石と申す者に罵倒されたことを忘れてはおらぬ」と言い、切腹を命じたという。

 一方、家康の家臣たちも身を粉にして今川家に尽くすのだが、年貢米を横取りされたため、百姓のように鍬や鎌を取って田畑を耕し、道で駿河衆(今川家の家臣)に会ったら、卑屈なまでに身を屈め、這いつくばって生きていたという。それでいて合戦となれば駆り出され、最前線に送られるのだ。

 だからこそ、彼らは松平家(当時はまだ徳川へ改姓する前)が今川の支配から解放されて岡崎城を取り戻す日が来ることだけを信じ、家康もまた、家臣らの苦労に応えてやらねばならなかった。

 しかし、以上の話を掲載する『三河物語』は江戸時代初めの旗本、大久保彦左衛門が子孫への教育のために書いたものとされ、内容がそもそも教訓的。逸話は誇張されている疑いがある。

 たとえば、家康の人質時代の話を伝えた最も古い史料とされる『松平記』(作者不詳)には家康の父・広忠にも義元が憐憫の情を示すなど、松平家に同情する面があり、そうなると『三河物語』の内容はやはり疑って考える必要がある。

 ただし、「三河衆(松平家臣)の半分はみな、今川殿(義元)へ出仕していた」(『松平記』)というから、家康の家臣は松平家の旧臣に過ぎず、形の上では今川家の家臣であって、さらには「岡崎城の本丸には駿河衆が入り、彼らが城を預かっていた」(『松平記』)という。

 だが、その松平家の君臣ともに一一年間待ちに待った瞬間がやってきた。

 永禄三年五月一九日、義元は信長を降して尾張を征服しようと大軍を率いたものの、桶狭間(愛知県豊明市・名古屋市)で織田軍の急襲に遭い、首を取られてしまうのだ。

 家康も三河衆を率いて今川方の最前線の城である大高城(名古屋市)に兵粮を運び入れ、その日の午後、義元の到着を待っていた。しかし、途中の桶狭間で討ち死にしたため、義元はやって来なかった。

 大高城へ義元敗死の知らせが届いたのは、その日の薄暮の頃。当然、城兵たちは浮足立った。

 徳川創業期の代表的な史料の一つ、『武徳編年集成』(幕臣の著)によると、「すでに沓掛城(豊明市=これも今川方の城)の兵たちも逃亡した」という情報が飛び交い、松平の家臣たちは「早く軍を退き、帰国すべき」、つまり、すぐさま岡崎へ帰りましょうと進言したが、家康は、「陣中には訛言(たわごと)がつきもの。それを信じてあとで嘘だとわかったら世の誹謗を受ける。もうしばらく待ってから真偽を確かめよ」と言った。

 このあたりの決断には、慎重な家康の性格がよく現れている。

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