明治新政府のトップは優柔不断!?太政大臣・三条実美「悪評の真相」の画像
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 明治新政府のトップ(太政大臣)でありながら、三条実美には「優柔不断」で、その地位に相応しくないという評がつきまとう。

 特に明治初めの最大の政治問題「征韓論(詳細は後述)」を巡り、自らは反対であるにもかかわらず、賛成派の西郷隆盛(旧・薩摩藩士)の顔色を窺って政局を混乱させた末に周章狼狽。重責に耐えかねるように病やまいに倒れ、政敵の島津久光から後に「実美を退けなければ皇国(日本)は西洋各国の奴隷になってしまう」とまで酷評された。

 その一方、実美は新政府の危機を救い、伊藤博文(旧・長州藩士)は彼を「立派な玉を見るような人」と評した。

 また、岩倉具視(公卿)、大久保利通(旧・薩摩藩士)、木戸孝允(旧・長州藩士)の「三公」に比べても「別格の人」だったとする。

 実美は本当に太政大臣としての素質に欠けていたのか。後半生を中心に、この評価が極端な人物の事績を振り返ってみよう。

 天保八年(1837)二月八日、朝廷で「五摂家」に次ぐ家格を誇る「九清華家」の三条家に生まれ、父・実万の影響から攘夷派公卿として活動。

 文久二年(1862)一〇月、江戸幕府一四代将軍徳川家茂へ攘夷決行を促す使者として江戸に赴くが、連携していた過激攘夷藩の長州が翌文久三年八月一八日の政変で京から追放されると、彼もまた失脚。他の攘夷公卿とともに長州へ落ちのびた(七卿落ちという)。

 その後、大宰府へ移り、慶応三年(1867)一二月九日、その地で王政復古の日を迎えた。

 この日、幕府に代わって後の明治新政府が発足。実美は二七日に上京参内するや、ただちに新政府の議定に任じられ、その年に明治と改元される年明けの正月八日、岩倉とともに副総裁となった。

 有栖川宮が就いた総裁は名誉職だから、実美はいきなり明治新政府の事実上のトップの地位に担ぎ出されたのだ。

 同じ公卿の岩倉は幕末の土壇場で大久保や西郷とともに討幕工作に関わっていたから頷けるが、七卿落ち後、政治活動をしていなかった実美が、なぜ抜擢されたのだろう。

 まずは彼が攘夷派公卿の代表格だったこと。次いで、当時、新政府の主要メンバーである薩長出身者にとって、岩倉を除き、信用できる公卿がいなかったことが挙げられる。

 やがて右大臣に任じられた実美は、関東監察使(のちの関八州鎮将)として赴いた江戸で大きな仕事をする。その年の七月に江戸は東京と名が改められ、遷都論が持ち上がった。

 ただし、新政府内の大勢は「東京」と「京(西京)」の双方を首都とする「両都論」だった。

 しかし、実美はロシアが虎視眈々と北海道を狙っている情勢などから、防備のために東京を単独首都とすべきだと木戸らに説き、遷都の前段階として天皇の東京行幸に成功した。戊辰戦争の影響で天皇の行幸は遅れたが、一〇月一三日に実現し、江戸城が皇居となった。

 天皇の行幸が決定したとき、実美は「積年の微志」という言葉ながら、その実現を喜んでいる。

 こうして東京遷都に努めた実美は明治四年(1871)七月、太政大臣に就いた。

 この明治の太政大臣は旧朝廷時代の職務が大幅に強化され、「天皇を補翼 (補佐)する」ものと規定された。

 つまり、制度上、実美は三五歳で新政府の最高指導者になったわけだ。

 では次に、実美が酷評されるきっかけになった征韓論を巡る、太政官閣議構成メンバー(参議)の対立劇を見ていこう。

 岩倉や大久保らの首脳が渡欧のために日本を留守にしている間、日本との交易を拒む朝鮮への強硬論が沸騰。西郷は自ら使節となって朝鮮へ渡り、交渉決裂後、ただちに出兵すべきと主張した。

 明治六年(1873)八月一七日、西郷に押され、実美はその日の閣議で使節派遣を決定したものの、天皇に決断を仰ぎ、岩倉の帰国を待って改めて決議することになった。

 しかし、その間に実美は西郷から「使節派遣に決まったのにそれが御沙汰替え(変更)となっては天下のためにならない(中略)そうなったら死をもって国に報いるしかない」と脅され、窮地に陥っていた。

 岩倉の帰国後、一〇月一四日、一五日の両日に開かれた閣議は紛糾。

 議論は平行線を辿ったが、最終的に「西郷の説をいれなければ職を辞すだろう。そうなっては天下大勢にかかわる」という実美の判断で使節派遣が決定した。実美がギリギリのところで反対派の岩倉や大久保を裏切った形となり、大久保から辞表を突きつけられ、岩倉も辞意を示した。

 こうして周章狼狽。実美は一八日朝、激しい胸の痛みを訴えて病床に伏した。心筋梗塞などが疑われるが、幸いに病状は回復した。

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