■契約更改の不満から再び三冠王を狙って

 では、その“ミスター三冠王”落合博満は、いかにして歴代最多、3度もの三冠王に輝いたのか。ロッテ時代の“直弟子”愛甲猛氏は、若き日をこう振り返る。

「初めて獲った82年の契約更改で、本塁打と打率が前年より下がったことを上から指摘されたことにムカついたらしくて、オフの自主トレで“今度は絶対有無を言わさない成績で獲ってやる”って言っていたのは覚えているよ。それで実際、獲っちゃうあたりが、あの人のすごさなわけだけど」

 事実、85年、86年はいずれも打率3割6分、50本塁打、100打点の大台をクリアするなど他を圧倒した。

 それらを手土産に、同オフには、中日への“世紀のトレード”も実現させる。

「あの頃のオチさんの打撃には“惜しい”当たりがほとんどなかった。大げさじゃなく、捉えにいったら確実に逃さない。マウンドの投手が“それ、そこに打つのかよ”って、首をひねってる姿も、しょっちゅう見たしね。面白いもんで、いわゆる“ゾーン”に一度入ると、本当に吸い込まれるみたいに、ボールもそこに行くんだよね」(前同)

■バースやブーマーも

 一方、時を同じくセ・リーグでは、阪神のランディ・バースが、落合と並んで2年連続で三冠王を奪取。前年の84年にパで快挙達成の阪急、ブーマー・ウェルズとともに、優良助っ人=背番号「44」のイメージを世間に浸透させた。

「3人に共通するのは選球眼のよさ。オチさんなんかは“年間500打席として四球100個なら、残り160安打で4割だ”って、その通りに3ケタ取ってたしね(笑)。ブーマーに関しては、他の2人と違って、打球角度がスラッガーのそれじゃなかった。リーチが長いから外角でも届いちゃうし、とにかくライナーでスタンドまで届いちゃうって感じ。それは、すごく印象に残ってるよ」(同)

 ちなみに、阪神でバースとともに主軸を担った掛布雅之も、82年に本塁打王と打点王を獲得しながら、打率3割2分5厘で惜しくも3位。三冠王の栄誉に浴すことはできなかった。

■昭和の球史に名を刻んだ6人、平成以降は1人

 昭和の球史に名を刻んだ三冠王は6人いるが、平成以降では、04年のダイエー、松中信彦一人しかいない。

「松中の実力もさることながら、あの時代、井口資仁、城島健司らを擁したダイエーの強力打線による“援護”も大きかった。相手投手も、松中と勝負せざるをえないわけですからね。前年にはペドロ・バルデスも含めた、史上初の100打点カルテットも形成した重量打線ですから、攻撃力は歴代屈指。そういう意味で、三冠王には多分に環境や運の要素もありますよね」(前出のライター)

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