藤原氏隆盛を決定づけた陰謀事件「長屋王の変」真相を解く鍵は「呪術」の画像
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 奈良時代の初め、藤原一族に謀叛の罪を着せられ、ある皇族が葬り去られた――この政変を「長屋王の変」と呼ぶ。

 ところが、平城京のすぐ近くに営んだ長屋王の邸宅跡(二条大路南=奈良市)の発掘調査によって、その通説に疑問が投げ掛けられた。

 この奈良時代初めの政変の真相を探ってみよう。

 長屋王は天武天皇の孫に当たり、母は天智天皇の娘。皇族として申し分ない血筋を誇り、養老二年(718)には大納言に昇った。

 二年後の同四年、当時、朝廷のトップに立っていた藤原不比等が死去すると、長屋王が彼に取って代わる。

 天皇の諮問に応え、行政を執り行う朝廷の要職を議政官と呼び、そのトップは大臣(太政大臣、左大臣、右大臣)クラスだが、当時はいずれも空席だったため、大納言の長屋王が事実上、朝廷の最高指導者となったのだ。

 議政官には中納言と参議も含まれ、不比等の長男・武智麻呂が中納言、次男の房前が参議に名を連ねていたものの、神亀元年(724)に聖武天皇が即位すると、皇族ということもあって長屋王は左大臣に昇った。

 以降、失脚する神亀六年(729)までの六年を長屋王政権という。

 その神亀六年二月一〇日、変事は突然やってきた。以下、平安時代の初めに編纂された『続日本紀』に従い、事件の流れを追ってみよう。

 その日、漆部君足と中臣宮処の東人という二人の官人が「左大臣長屋王ひそかに左道(詳細は後述)を学び、国家を傾けようとした」と朝廷に訴え出た。

 密告のあった一〇日、早くも鈴鹿関(三重県亀山市)、不ふ破わ関(岐阜県関ケ原町)、愛発関(福井県敦賀市)という要衝が固められ、不比等の三男・式部卿宇合が六衛府(皇居を守る軍事組織)の兵を率い、長屋王の邸宅を囲んだ。

 翌一一日には舎人親王(天武天皇の第三皇子)や武智麻呂らが糾問に訪れ、その翌一二日、長屋王は妻や子らとともに自害。

 一五日に聖武天皇から「長屋王は慝を尽くして奸を窮わむ」、すなわち「悪事を働いてよこしまな心を極めた」と厳しい口調の勅(天皇の言葉)が発せられたが、一八日に長屋王の兄弟や姉妹、その子孫に連座制は適用しないという旨の勅が新たに下った。以上が事件のあらましだ。

 まず密告のあった日に宇合が長屋王の邸宅を六衛府の兵で囲んだというのは手回しがよすぎる。

 そして、聖武天皇が厳しい口調で長屋王を非難した一方で、一族に連座制が適用されないというのもどうだろう。長屋王に謀叛の企てがあったのなら、一族に連座制が適用されてしかるべきだ。

 しかも、ここには、糾弾に訪れた武智麻呂と実際に兵を率いて長屋王邸を囲んだ宇合という藤原兄弟が登場するため、この事件の黒幕は藤原氏であったと解釈されているのだ。

 ちなみに房前は事件に登場せず、関与していないという説があるものの、後述するように藤原氏には共通の野望があり、彼もまた黒幕の一人とされている。

 そして、もう一人、六衛府の兵が天皇の許可なく勝手に動かせないことを考えると、聖武天皇も黒幕の一人と考えられる。

 では、彼らはなぜ長屋王を罠にかけなければならなかったのか。実はその伏線は、聖武天皇が即位した年に起きていた。

 彼の母は不比等の娘で藤原宮子といい、皇族出身でなかったため、聖武は権威づけのため、彼女に「大夫人」の称号を与えた。

 だが、前例がないからと長屋王が反対。その号は取り消されてしまう。

 そして、変の二年前、聖武天皇に待望の皇子が産まれた。その母は宮子の妹に当たる光明子 。皇子が皇位に就けば藤原氏は外戚の地位を得られるため、生まれてすぐ皇太子に定められたが、翌年に亡くなってしまった。藤原氏としては当然、光明子が第二の皇子を産むことに期待した。

 しかし、聖武と別の女性の間に皇子(安積親王)が誕生したのだ。

 藤原氏としては、なんとしても安積の即位を阻まねばならない。

 そこで、光明子を皇后(天皇の正式な妻)にしようとした。聖武と皇后との間に皇子が生まれたら、それでよし。もし生まれなくても、皇后なら即位することができるからだ。

 しかし、これまで皇族を除き、皇后になった者はおらず、宮子の称号の一件で前例がないといって撤回させた長屋王の猛反発が予想された。

 そこで聖武天皇を巻き込み、長屋王を罠にかけたというのが通説だ。

 事実、変の半年後、藤原氏は立后に成功し、光明皇后が誕生。皇子は生まれなかったが、のちに聖武と皇后の間に生まれた阿部内親王が古代最後の女帝、孝謙天皇として即位する。

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