今さら他人に聞けない歴史の常識「平氏」と「源氏」はなんなのか!?の画像
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「北条は平氏、われらは源氏。ゆめゆめ平氏の犬になり下がるでない」

 NHK大河ドラマ『太平記』(1991年放送)で少年時代の新田義貞が、まだ元服前の足利尊氏を諭すセリフだ。二人は後に北条氏が支配する鎌倉幕府を滅ぼす。

 この国の武家政権は平清盛で始まり、源平合戦に勝って源頼朝が鎌倉幕府を開いた。ところが、源氏が三代で滅び、平氏である北条氏が事実上、幕府を乗っ取った。

 つまり、武家政権は平氏(清盛)から源氏(頼朝)へ移り、再び平氏(北条氏)が担い手となったものの、後醍醐天皇の建武の新政を経て、源氏の足利氏が新たな幕府を興す。

 源氏と平氏が交代で政権を持ち回りしたという意味で、源平交代思想と呼ばれる。

 このように武家の二大棟梁が源氏と平氏であるのは、いわば日本史の常識と言えるが、そもそも源氏と平氏とはなんなのか。

 また、『平家物語』(鎌倉時代成立の軍記物語)に代表されるように、清盛の一族を平家と呼ぶ場合と平氏と称するケースがあり、両者はどう違うのか。かつ、源氏の場合は源家と言わないのか――。

 知っているようで知らない謎を解き明かしていきたい。

 源氏と平氏はともに賜姓皇族と呼ばれる。皇子や皇孫が姓(氏族の名称)を天皇から賜って臣下に降った者らのこと。皇族の増加で皇位継承などの争いの種となるのを避けるため、奈良時代に入ると、皇族の一部が皇籍を離れ、「清原」「在原」などの姓を賜った。

「源」の姓が誕生するのは平安時代になってからだ。嵯峨天皇が光仁五年(814)、皇子ら八名に源の姓を与えたのが最初。皇族すべてを養いきれなくなった天皇家の財政問題が関係しているとされる。

 源には「天皇家がその源」という意味が込められ、このとき、臣籍に下った皇子らとその末裔を「嵯峨源氏」という。

 次いで、今度は皇子側から、泣かず飛ばずの皇族であるより、思い切って臣下に降り、子孫らに朝廷での出世の道を歩ませたいというニーズが生じてきた。

 その代表者が葛原親王。彼は平安京遷都を実現した桓武天皇の第三皇子で嵯峨天皇の義兄に当たる。

 しかし、生母の身分が低く、治部、大蔵、式部の各卿(いわゆる閣僚)などを歴任したものの、いずれも名誉職的な意味合いが強かった。

 そこで、天長二年(825)、皇子らが平姓を名乗ることを朝廷に乞い、認められるのだ。

 平の意味には諸説あり、「朝敵を平らげる」という他、「平安京」の「平」を「たいら」と訓ませたことに由来するともいわれる。葛原親王の父が平安遷都を実現した桓武天皇であるため、今では後者の説が有力だ。

 同じ頃、他の桓武天皇の親王らも平姓を乞い、彼らとその末裔は「桓武平氏」と呼ばれた。

 その後も中世に至るまで源と平の姓を賜る皇族が相次ぎ、それぞれ祖とする天皇の名を用いた呼称が一般化する。

 平氏では桓武平氏の他、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏。源氏では清和源氏、村上源氏、宇多源氏、花山源氏など。理由は不明だが、平氏よりも源氏を名乗る賜姓皇族が一般的となった。

 以上の源氏と平氏のうち、二大武士団の棟梁を出しているのが桓武平氏と清和源氏だ。ほとんどの源平各氏が中央貴族として生きていった一方で、それぞれ桓武平氏の高望王と清和源氏の経基王を祖とする流れの一族が地方で実力を培った。在庁官人(地方の役所で実務を執った上級官僚)として地元の農民らを使って新たな土地を開き、経済力と武力を蓄えていったのだ。

 まず、高望王の流れを引く桓武平氏(高望流桓武平氏という)のその後を見ていこう。

 嫡流は従兄弟の平将門を討った平貞盛。彼の叔父・平良文の末裔が「坂東八平氏」(千葉、上総、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾)と呼ばれ、その多くが頼朝とともに挙兵し、鎌倉幕府の有力な御家人となった。

 一方、貞盛の四男・維衡は伊勢に下向し、その末裔が清盛。清盛の祖は、いわゆる貞盛流桓武平氏の庶流(伊勢平氏)という位置づけになるが、その後、隆盛を極めた。

 かたや、貞盛の嫡流はやがて没落する。彼らの末裔は伊豆の北条(静岡県伊豆の国市)の地で細々と命脈を保ち、時政の代に頼朝が流されてきたことで運が開けた。

 つまり、桓武平氏と一言でいっても系統が細かく分かれているのだ。大武士団の棟梁に成長する清盛は「桓武平氏」と呼ばれる賜姓皇族の中でも「高望流」に属し、さらにその中の「貞盛流」の庶流「伊勢平氏」に位置づけられる存在だ。

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