「討つべきは上杉か石田か――!?」軍議「小山評定は史実か」最終結論の画像
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 来年のNHK大河ドラマどうする家康』の主人公・徳川家康は慶長五年(1600)七月、諸将を率い、謀叛の疑いのある会津の上杉景勝を討つべく行軍していた。江戸幕府の公式記録『徳川実紀』(以下『実紀』)によると、二四日、家康はかつて源頼朝が陣を構えた先例にならい、小山(栃木県小山市)へ陣を進めた。

 そこへ、上方で石田三成が挙兵したという知らせが届き、家康は翌二五日、評定(会議)を開く。史上有名な小山評定だ。

 このとき家康が率いていたのは亡き豊臣秀吉子飼いの諸将ら。しかも、彼らの妻子は大坂にいたから、三成らの人質になるのは必定。

 そこで、まず家康重臣の井伊直政と本多忠勝が「速やかにこの陣を引き払い、大坂へ戻り、諸将が三成らに一味してもわれらは恨みますまい」と発言するが、一語を発する者もいなかった。

 そのとき、秀吉の小姓出身の福島正まさ則のりが進み出て「妻子にひかれ、武士の道を踏み違えてはならん。内府(家康)のため、それがしは身命をなげうってお味方つかまつる」といった。この一言で評定の空気は一転。こうして諸将は妻子を捨て、家康に忠誠を誓った――と『実紀』はいう。

 以上は、名場面として歴史ドラマなどで繰り返し語られてきた。諸将の家康への信頼の高さを示す逸話でもある。

 また、『実紀』と同じ江戸時代の編纂物である『黒田家譜』によると、このとき「まず上方(三成)をご征伐なさるべき」と発言したのは黒田長政(のちの初代福岡藩主)だったという。

 しかし、歴史学者の白し ら峰旬氏が二〇一二年に、家康を神話化するために江戸時代に捏造された架空の話だとして、

「小山評定はなかった」という新説を発表したことを皮切りに、その後、「なかった」派と「あった」派の間で、この一〇年、大論争が続いている。

 小山評定は「なかった」のか、それとも「あった」のか――。

 小山評定は『実紀』や『黒田家譜』などの編纂物、『関原軍記大成』などの軍記物に記載されているものの、武将たちの手紙などの一次史料によって確実に小山で評定があったことが確認できないために論争となった。

 争点は多岐に及んでいるが、まず問題をややこしくしているのが七月一九日付で家康が福島正則に宛てた手紙だ。

 家康が「御出陣御苦労」といっていることから、正則が当時の居城清洲城(愛知県清須市)を出陣し、会津へ進軍している苦労をねぎらっていることが分かる。

 そして、重要なのは〈人数(軍勢)之儀者被上〉というくだりだ。意訳すると「軍勢を上洛されたし」という文意になる。その理由は「上方雑説」。

 つまり、上方で挙兵の雑説があり、会津へ進軍しているところ申し訳ないが、西へ軍勢を転じてもらえないかと、家康が言っているわけだ。

 さらに、手紙には「(正則)ご自身はここまでお越し下さい」とある。

「ここ」がどこなのかが問題となるものの、家康が江戸を発つのは二一日だから、一九日時点での「ここ」は江戸ということになろう。

 だとすると、正則がどこで手紙を受け取ったかはさておき、一九日に家康から依頼されて軍勢を西上(上洛)させ、自身は今後の方針を家康と相談するため江戸へ向かったと解釈できるのだ。

 したがって彼が二五日に小山にいるはずがなく、主役を欠いた評定そのものの存在が危うくなるのだ。

 もちろん、正則が家康とともに二一日に江戸を発ち、小山へ向かった可能性はあるものの、正則が自分の軍勢をほったらかしにするとは考えにくい。

 よって江戸から西上する軍勢の後を追ったと見るのが自然。やはり、正則は小山にいなかったことになる。

 ところが、この手紙の原本は写ししか残っておらず、その写しが計三通あって、これまで述べてきたのはその一通。

 問題は、もう一通の日付が七月二四日で、内容も〈人数(軍勢)之儀者被止〉とあること。最後の一文字がさきほどの手紙の写しと「上」から「止」へと変わっている。日付とともに、どちらかが写し間違えなのだろう。

 この日付(一九日と二四日か)と「上」、あるいは「止」の違いを合わせて考えると、手紙の文意はまるで異なってしまうのだ。

 通説では家康は二四日に小山に着陣しているため、二四日付なら「ご自身はここまでお越し下さい」という際の「ここ」は小山となり、さらに「軍勢の進軍を止められよ」と、家康が正則に依頼したと解釈できる。

 つまり、家康より先に会津方面へ向かっていた正則の進軍をいったん止めさせ、上方での挙兵の「雑説」が聞こえてきたため、家康が彼を小山へ呼び戻したといえる。

 そうだとしたら、通説通り、正則は小山評定で主役の役目を十分に果たすことができるのである。

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