ペリーより百年以上も早く来航!元文の黒船「乗組員の正体と目的」の画像
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 黒船来航――と聞けば、多くの読者は嘉永六年(1853)六月三日、アメリカの東インド艦隊司令官ペリー率いる四隻の蒸気船が浦賀(神奈川県)に来航した事件を思い起こすことだろう。

「泰平の眠りを覚ます蒸気船。たった四杯(隻)で夜も寝られず」と狂歌に謳われ、鎖国の時代が終わりを告げることになる歴史的事件だ。

 しかし、日本人はその一一四年前にも黒船を目撃していたのである。これを「元文の黒船来航」という。

 元文四年(1739)五月二三日、牡鹿半島の四キロほど先に浮かぶ網地島(宮城県石巻市)の住民が沖合の異国船を見て、「船は黒塗りで、鉄を延べたように丈夫に見えた」と話し、当時の風説を集めた『元文世説雑録』で紹介されている。紛れもない黒船来航だ。

 当時はまだ江戸時代の半ば。八代将軍徳川吉宗の治世だ。吉宗はこの黒船来航にどう対応し、また、黒船の正体はなんだったのか。そして、鎖国という当時の日本の外交政策についても改めて検証してみよう。

 キリスト教の教義が身分制度に反するため、幕府はキリスト教諸国との貿易を制限。寛永一六年(1639)にはポルトガル船の来航を禁止し、鎖国体制が整ったとされてきた。

 しかし、現在は江戸時代に日本が鎖国していたという事実が見直されつつある。まず、貿易相手国をオランダ、中国、朝鮮に制限していたものの、幕府の統制下で貿易が行われていたこと。

 さらに幕府は長崎の出島にあるオランダ商館から『オランダ風説書』という形で海外の情報を入手。決して「泰平の眠り」についていたわけではなかったのだ。

 特に将軍吉宗は異国に強い関心を示していた。たとえば、東南アジアに生息するゾウ。吉宗の要望に応えた中国人の商人がベトナムからゾウを連れてきたのだ。その雄ゾウは吉宗に“謁見”するため、長崎から一日二〇キロの速度で歩いて江戸までやってきたという。

 また、吉宗は享保二年(1717)四月、長崎からオランダ商館長を江戸城へ呼び寄せ、動物好きだった彼はオランダやバタビア(オランダの植民地=現・インドネシアの首都ジャカルタ)の馬の話の他、同じくオランダとバタビアの緯度や気候などについて尋ねている。

 一方、五代将軍綱吉の時代に幕府はキリスト教関連の漢訳洋書(漢文で表記された西洋の書物)を警戒し、事実上、輸入禁止としていたが、吉宗はこの行き過ぎを改め、享保五年(1720)にこの措置を緩和した。

 ちなみにわが国でこのあと洋学が盛んになるが、その契機がこの吉宗の開明的な政策にあったといえよう。

 そして、吉宗が亡くなる一二年前の元文四年、黒船が来航したのだ。

 まず黒船は五月一九日に気仙沼沖(宮城県)に出現。次いで前述した通り、二三日に網地島の住民が目撃している。

 現れた黒船は二隻。さらに二五日、荒浜(宮城県亘理町)沖では、もう一隻増えて三隻。同じ日に安房の天津沖(千葉県鴨川市)でも一隻。

 二八日には荒浜沖にいた三隻が田代島沖(宮城県石巻市)などに現れ、伊豆の下田沖(静岡県)でも一隻が目撃されている。あとで分かったことだが、目撃される隻数が異なるのは、四隻で艦隊を組んでいた黒船が気象条件などの理由で別行動となったためだった。

 先の『元文世説雑録』によると、網地島の漁師は漁船で近づき、黒船の乗組員が手招きしたので乗船したらしい。鯛を渡したら、たいそう喜ばれ、その代わりに豆板(通貨)を五枚渡されたという。網地島の漁師と黒船の乗組員との間で、いわば商い(貿易)が成立したことになる。

 また、田代島の僧侶や漁師らが黒船に乗船した際の話として、「(船には)商売用と思われる毛皮をたくさん積み込み、皮製の地球のようなもの(つまり、皮製の地球儀)があった」という。

 幕末に編纂された幕府の外交史料集『通航一覧』は、この「元文の黒船来航」についても記し、異国人が住民(網地島の漁師とは別)らに与えた通貨が黒船の正体を知る決定打となったことが分かる。

 住民らが幕府に通貨を届け、幕府はさらにオランダ商館長に送って確かめさせたのである。結果、それがロシアの通貨と分かり、黒船の正体がロシア船と判明したのだ。

 では、ロシア船はなんの目的があって日本近海に現れたのだろうか。

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