NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』終盤で話題を集めそうなのが、女優の菊地凛子が演じる北条義時の三番目の妻。初登場以来、義時をたぶらかし、まんまと正室の座を射止めた怪しい女として描かれている。
父・藤原朝光が伊賀守に任じられ、伊賀氏と称したことから伊賀の方と呼ばれる。その彼女には夫・義時を毒殺した疑いがある。
義時は本当に妻に毒殺されたのだろうか。その疑惑と死後に鎌倉を襲った事変の真相を探ってみよう。
当時、「義時が毒殺された」と幕府の役人に告げたのは二位法印尊長という比叡山延暦寺の僧であった。
承久の乱で後鳥羽上皇方の参謀的な役割を果たした男で、乱から六年が経った安貞元年(1227)四月、逃亡中に逮捕された。
藤原定家の日記『明月記』によると、このとき自害しようとした尊長は、三年前の元仁元年(1224)六月一三日に亡くなった義時の死について
「早う首を斬れ。そうでないなら、義時の妻が飲ませた薬をだして早く殺せ」と思い掛けない言葉を口にしたというのだ。
その伊賀の方の娘婿に宰相一条実雅公卿がいて、鎌倉幕府が編纂したとみられる『吾妻鏡』によると、伊賀の方を中心に、彼を将軍職に就けようとした陰謀が発覚する。
しかし、『吾妻鏡』を丹念に読んでいくと、陰謀の本当の狙いは娘婿の将軍就任より、幕府の執権(将軍の政務代官)人事だったことがわかる。
義時の死が急逝だったため、その後継人事について明確な指示がなく、長男の太郎泰時のみならず、伊賀の方が産んだ四郎政村にも執権職継承の可能性が出ていたからだ。
もし義時が急逝しなければ、その可能性がなかっただけに、彼女が夫を毒殺する動機は十分にあった。
また、義時毒殺をほのめかした尊長は、伊賀の方が将軍へ擁立しようとした宰相一条実雅の弟。この辺りの陰謀の詳細を知っていてもおかしくはない立場だった。問題は陰謀が事実かどうかだ。泰時の行動からそのことを検証してみよう。
まず、六月一六日、京で六波羅探題の任にあった泰時の元に父の訃報が届き、翌日彼は京を発ったが、警戒してなかなか鎌倉に入ろうとしなかった。
南北朝時代の史料『保暦間記』には、泰時は伊豆まで来てしばらく逗留し、京から同行していた叔父の時房を先に鎌倉へ遣わして「陰謀の輩を尋沙汰(事実を調査して処置すること)」したあと、ようやく二七日に鎌倉の自邸へ入ったという。
一方、『吾妻鏡』によると、義時の死後、「武州(泰時)が弟(政村)を討つため京から鎌倉へ下向した」という噂が流れていた。
そうなると、泰時が北条氏の本拠である伊豆に逗留した謎の行動も、そこで軍勢を集めるためと解釈できる。こうして警戒を怠らず、軍勢を伴って泰時が鎌倉入りされてしまっては、仮に伊賀の方に野望があったとしても動きが取れなかっただろう。
事実、泰時が鎌倉の自邸に落ち着いた翌日、伯母の尼御台所(初代将軍源頼朝未亡人の政子)に呼ばれ、「軍営(将軍)の後見として武家のことを執行すべき」旨、仰せつけられる。義時急逝後の混乱を静めるため、政子によって新執権に任命された形だ。ここに、わが子を執権に据える伊賀の方の野望はついえたわけだ。
こうして沈静化した事態が七月に入り、再び動き出す。伊賀の方の兄・伊賀光宗らが政村の烏帽子親である三浦義村のところへ頻繁に足を運び、そのことを不審に思った政子が一七日、三浦邸で義村を詰問した。
政子はストレートに「政村と光宗がしきりに出入りしていると聞く。何やら密談を交わしているという風聞だ。何を企んでいるのか?」、つまり、謀叛を企てているのではないかと糾弾したのだ。
義村はしらばくれるが、政子に重ねて問われ、「政村にまったく逆心はありません。光宗には何か考えがあるようですが、それがしが言うことを聞かせます」と白状(『吾妻鏡』)。
こんなことがあったため、再び鎌倉市中に物々しい空気が流れ、義時の四九日法要が営まれた三〇日の夜、甲冑をつけた御家人らが市中に溢れた。
その翌閏七月一日、泰時の邸に政子や幕府の宿老が集まり、対応を協議し、伊賀の方と兄の宗光、さらには娘婿の実雅を配流に処した。