嵐・松本潤主演のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも話題!今川義元の軍師で戦国最強の僧侶、黒衣の宰相・太原雪斎の軍略知謀の画像
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 NHK大河ドラマどうする家康』の初回放送は、織田信長が今川義元の大軍を破った桶狭間の合戦(愛知県豊明市、名古屋市)からスタートした。

 その合戦で義元が討ち死したことを伝える『甲陽軍鑑』の記事に、「山本勘助は先年より、駿河今河(川)家の備えが危ういと、ここ数年たびたび申していたが、その通りになった」とある。

 ここ数年というのは、今川義元の軍師・太原雪斎が亡くなって以降の五年間のこと。つまり、武田信玄の軍師・山本勘助は、雪斎の死去後、今川の備え(作戦)が危うくなったと、たびたび指摘していたというのだ。そこからは、雪斎さえ生きていれば義元は負けずに済んだというニュアンスが感じられる。『甲陽軍鑑』は江戸時代初めの軍記物語のため、史実性は乏しいといわれるが、以上のことから、その筆者は雪斎の手腕を買っていたと考えられる。

 雪斎は歴史雑誌『歴史人』124号の「軍師ランキング」で、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛に次ぐ2位に輝いた実力者。いったい彼は、どんな智謀を巡らせたのだろうか。

 雪斎は今川家の家臣・庵原氏出身。明応五年(1496)生まれだから、永正一六年(1519)生まれの義元より二三歳年長になる。

 若い頃より秀才の誉れ高く、臨済宗の富士善得寺(現在は廃寺)で出家したあと、京の建仁寺(京都最古の禅宗寺院)で頭角を現し出した。

 そんな彼の噂を聞きつけ、三男・義元の教育係に起用したのが今川氏親。雪斎はその招きに応じ、いったん駿府(静岡市)へ帰国した。

 一方、今川家の家督は兄・氏輝が継ぐことになっていたため、義元は出家して栴岳承芳と名乗り、富士善得寺で禅僧の舜琴渓に師事していたが、その師匠が亡くなったあと、雪斎の薫陶を受けることになったようだ。

 やがて雪斎は承芳を伴って再び上京し、建仁寺の首座(修行僧のリーダー)に昇り、その三年余りの間に京で人脈を広げた。このことが後の彼の活躍に大いに役立つのだ。

 天文四年(1535)八月、氏親の死去で家督を継いでいた氏輝が相模の北条氏綱と組み、甲斐の武田信虎(信玄の父)と戦火を交えることになったため、かろうじて均衡を保っていた甲斐(武田)、駿河(今川)、相模(北条)の関係は一気に崩れた。

 そこで雪斎は承芳を伴い、駿河へ帰国。すると、翌天文五年三月に氏輝が亡くなり、今度は今川家で内紛が勃発した。

 氏輝には嫡子がおらず、いずれも出家していた二人の兄弟、承芳と庶兄の玄広恵探(花蔵殿)が家督を争うことになったのである。結果、承芳派が迅速な動きで恵探を現在の藤枝市で攻め滅ぼし、承芳は還俗して今川家当主となった(花蔵の乱)。

 この内紛の際、雪斎の弟子がまとめた伝記史料に「雪斎の寸胸(ちょっとした)の工夫と一臂(わずかな)の調略によって国(駿河)は安泰となった」と記されている。

 伝記史料だから割り引いて考えねばならないが、義元が富士善得寺と駿府(静岡市)の分院である善得院(現在の臨済寺)を雪斎に与えているのは、花蔵の乱の論功行賞に他ならない。

 それでは彼は、どんな工夫と調略を見せたのか。

 このとき、今川家と友好関係を続ける相模の北条氏綱が承芳派として参戦していたから、今川家と敵対する武田信虎が恵探派に加担して事態を混乱させる恐れもあった。その武田家が静観したのは、雪斎の調略が功を奏したからだ。

 雪斎は京都時代に培った人脈をフルに活用して、信虎の嫡男・信玄(当時は晴信)の正室に京の名門三条家から姫を迎えられるよう工作し、水面下で武田家との同盟を模索していたのだ。

 三条家は左大臣になれる公卿の家柄で清華家と呼ばれる。武田家としてはそこから嫁取りするのは名誉な話。よって信虎はこの雪斎の調略に乗ったのだ。こうして雪斎は内紛の勝利と武田家との関係修復を同時に実現したのである。

 花蔵の乱の翌天文六年(1537)に武田家との同盟が実現するものの、その武田家と国境付近で争う北条氏綱は激怒した。

 この年、氏綱はただちに報復として、富士川以東の今川領国( 河東と呼ばれる地方)に侵攻し、またたく間に占領した(第一次河東一乱)。

 その後、両者は和睦に漕ぎ着けたものの、北条家が氏綱の嫡男・氏康の時代になると、天文一四年(1545)、今川勢は信玄と連携しつつ、河東地方奪回のために動き出した(第二次河東一乱)。

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