平安京誕生前から繁栄していた!古代京都を支配した「豪族の正体」の画像
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 およそ一二〇〇年前の延暦一三年(794)に平安京が誕生する前から現在の京都市中心部には人々が住み、歴史を刻んでいた。その「遷都以前の京都」の謎に迫ってみた。

 当時の京都で栄えた豪族は二氏ある。秦氏と賀茂氏だ。両氏とも後に平安京となる葛野郡と愛宕郡を勢力圏とし、秦氏が現在の太秦(京都市右京区)、賀茂氏が京都盆地北部の賀茂川流域を本拠地としていた。

 まず秦氏から見ていこう。彼らは朝鮮半島新羅からの渡来人。『日本書紀』によると、葛城襲津彦という伝説上の人物の招きで渡来した経緯が記されている。その時期は伝説上、襲津彦が活躍する時代に合わせ、概ね五世紀頃と見ていいだろう。

 当時の朝鮮半島は半島北部の高句麗の攻勢によって動乱の時代を迎えていたから、戦禍を避けるべく海を渡ってきたとみられる。ただし、彼らがなぜ太秦の地を選んだのかは不明だ。

 その太秦の由来については諸説あり、一般的には秦氏が渡来したばかりの頃、秦酒公が雄略天皇に献上しようと絹織物をうず高く積んだため、禹豆麻佐の姓を与えられ、後に太秦の訓が振られたという説がある。

 しかし、それでは洒落がきいているだけで地名の由来とは言い難い。一説には「ウズ」は貴の古語で、「マサ」は朝鮮語の「村」を意味するともいわれ、ウズマサは村を率いる貴族、すなわち秦氏の族長を意味するともいう。秦氏の族長が住んでいたから地名が太秦になったのだとしても、まだ謎は残る。まず秦という氏名の由来だ。これには機織りの集団を率いていた氏族という意味があるという(朝鮮語で「海」を指すともいわれる)。

 では次に、秦氏は渡来後、太秦の地でどう発展していったのか。

 秦氏には葛野川(現桂川)に堰(葛野大堰という)を築いたという伝承があり、彼らは朝鮮半島の最新の治水技術によって土地を切り開き、同じく朝鮮からもたらした養蚕、機織りなどの殖産技術をもってヤマト政権(朝廷)に仕えていたとされる。

 しかし、開発や殖産には人が必要だ。秦氏は渡来系の人々や現地の日本人らを部民(天皇家や豪族らの私有民)として組織していたようだ。

 そして、推古天皇の甥に当たる厩戸王(聖徳太子)が活躍した六世紀末に秦河勝が登場する。『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、用明天皇二年(587)、蘇我馬子が厩戸王とともに物部守屋を倒した丁未の乱に参陣したとされ、これが事実なら、秦氏の軍事力が厩戸王家(上宮王家ともいう)の私兵として用いられたことになり、その関係の深さが窺われる。事実、河勝は推古天皇一一年(603)、厩戸王から授かった仏像を安置するために広隆寺(京都最古の寺)を建立している。

 このように厩戸王との関係もさることながら、寺を建立できるほどの財力は平安遷都の際に活かされた。

 一方、遷都前の京都には秦氏より歴史の古い一族が住んでいたとみられる。『新撰姓氏録』(平安時代初めに編纂された氏族の系譜集)によると、『古事記』『日本書紀』に登場するヤタガラスを祖とする一族だ。

 神武天皇の東征の際、熊野で道に迷った天皇一行の道案内をした霊鳥だ。そのヤタガラスと彼らの祖、賀茂建角身命を同一視するところからくる伝承だ。

 なぜ同一視されたのか。それは、この国に律令制が整った八世紀以降、その一族の者が主殿寮に出仕したことからくる解釈だという。

 主殿寮とは天皇が行幸する際に供奉(同行)し、乗り物を管理する役所。天皇に供奉する役割が神武天皇を先導したという伝説と重なったとされる。また、彼らは宮廷の神事にも携わり、天皇が即位した際の行事の一つである大嘗祭には、灯を掲げて夜間祭事の案内役を務めた。この天皇の先導役のイメージがヤタガラスの伝承を生んだという説もある。

 一方、賀茂建角身命は日本神話に登場する神。その神を祖先にするというのも伝承に過ぎない。それでは彼らは、どんな氏族なのだろうか。

 大和国葛城地方(奈良県御所市)に賀茂氏(鴨氏)と呼ばれる一族がいて、古代の超能力者といわれる役の行者を輩出するが、その葛城の賀茂氏から葛野地方の豪族に婿入りした者がいて、以降、その豪族が賀茂氏と称したとされてきた。しかし、今では次の説が有力だ。

■加茂氏こそが遷都前の京都の支配者だった!

 この国に律令制が整う前、朝廷は地方の支配者(首長=豪族)に「県主」や「国造」という役職を与え、支配下に収めていった。

 やがて県主や国造は姓(家柄を示す公的な称号)と化してゆくが、もともとは地方長官の役割を担う現実的な役職だった。賀茂氏の先祖がその葛野地方の県主だったことはいくつかの史料から窺える。

 つまり、彼らが賀茂氏と称する前は葛野県主一族というべき存在だったのである。

 ところで、県主の誕生起源は古墳時代の四世紀ともいわれ、それ以前に彼らが首長として葛野地方を支配していたとすると、前述した通り、五世紀以降とみられる秦氏の渡来時期より歴史は古く、賀茂氏こそが遷都前の京都の支配者だったといえる。

 葛野県主一族は、支配地域である京都盆地北部を流れる賀茂川の水源の一つ、貴布禰(貴船)の神を祀り、岡本(京都市北区)と呼ばれるところに居住していたという。

 そして、天武天皇六年(677)、その地に神社(現在の上賀茂神社=京都最古の神社)を創建し、奈良時代に下鴨神社(京都市左京区)と分かれる(両社を併せて賀茂社という)が、葛野県主の一族が両社の神官となった。

「神」は今では「かみ」と読むものの、古い時代の読み方は「かむ」。

 その「かむ」が訛って「かも(賀茂)」になったとされ、こうして彼らは賀茂氏と呼ばれるようになった。

 賀茂社が朝廷(国家)によって保護されたあとは賀茂氏の一族から神官が補任され、平安遷都が実現すると、上賀茂、下鴨の両社は国家鎮護の社となった。賀茂社の祭りは葵祭として知られるが、その名は神紋の二葉葵にちなみ、平安時代以降、未婚の皇女が斎院となって、その葵祭などの神事に奉仕したのである。

 つまり、遷都以前の京都で財力を蓄えた秦氏が平安京建設に経済面で尽力し、賀茂社の神官だった葛野県主の末裔たちは精神的支柱として平安京の鎮護を担ったといえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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