「千年の都」と呼ばれる京都の原点!平安京と造営を巡る「5つの謎」の画像
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 千年の都と呼ばれる京都。桓武天皇が「葛野」と呼ばれた土地を平安京と名づけ、遷都したのが延暦一三年(794)。

 当時、渡来系氏族の秦氏(前号参照)によって土地の開発が進められていたとはいえ、葛野の由来が葛(桂)の木が青々と生い茂るところとされる通り平城京(現奈良市)と比べると、まだまだ辺鄙な土地だった。

 桓武天皇はなぜ、そのような新開地に遷都したのだろうか。知っているようで知らない平安京の謎に挑んでみよう。

 なぜ平安遷都したのか

 桓武天皇が平城京を廃都にしたのが延暦三年(784)。奈良時代の政治の腐敗や後に「南都」と呼ばれる仏教勢力と政治を分断するのが廃都の理由とされ、そこに謎はない。

 天皇はまず山背国乙訓郡長岡京(現京都府長岡京市)に遷都。都の東を桂川(淀川の上流)が流れ、かつ古山陰道なども通り、水運と陸運ともに恵まれ、交通の要衝だった。

 ところが、一〇年めの延暦一二年(793)正月二一日、急に「(長岡)京を壊たん」(『日本紀略』)と欲し、別の建物( 東院)に入り、宮殿の解体に着手。早くもその翌年、同じ山背国の葛野に遷都した。

 慌てている様子が窺える。なぜ急いだのか、そこに謎がある。

 通説では、その理由を早良親王の祟りとしている。彼は天皇とは同腹の弟。皇太子に立てられたが、延暦四年(785)に長岡京で天皇の側近である藤原種継が暗殺され、その関与を疑われた。

 結果、皇太子を廃され、淡路国へ送られる途中、飲食を絶って死んだ。彼への嫌疑は冤罪だったという。

 冤罪になった理由はいくつかあるが、種継の暗殺事件に絡んで安あ殿て親王(桓武天皇の皇子で後の平城天皇)を皇太子に立てようとする勢力の犠牲になったとの見方が有力だろう。

 いずれにせよ、こうして早良親王が怨霊になったという噂が長岡京で囁かれ出した。

 天皇がこの祟りを恐れたのは確かだ。まず長岡京の解体を決意する一年前(792年)の六月一〇日、病気がちだった安殿親王の病状が悪化し、卜定の結果、早良親王の祟りだと判明したこと。

 さらに二二日には大洪水が長岡京を襲ったこと。この自然災害も祟りと考えられたのだろう。

 しかし、桓武天皇はただ祟りを恐れただけではない。長岡京にはそもそも水害が起こりやすい弱点があり、それが現実のものとなって、安全な都への遷都を急がせたと考えられる。

 とはいえ、遷都には巨額な予算が必要なため、スポンサーがいなければ決意しなかったのではなかろうか。

 そのスポンサーが桂川一帯を本拠とする秦氏。彼らは渡来した五世紀頃から朝鮮半島由来の殖産事業で朝廷に仕え、財を成していた。

 天皇の母が渡来系の一族の娘( 高た か野のの新に い笠がさ)ということもあり、その親近感もあって秦氏の力を頼りにしたのだろう。

 遷都の地がなぜ葛野だったのか――そこが秦氏の勢力圏だったからだ。現代流にいうなら、その財力を最大限に活かし、秦氏が本拠地に首都を誘致したといえよう。

 平安時代半ばの史料『天暦御記』によると、大内裏(天皇の居所である内裏と諸官庁が置かれた一区画)は、もともと秦河勝の居宅跡で、紫宸殿(内裏の正殿)前庭の橘の木もその邸宅にあったものだという。

 河勝というのは飛鳥時代の人で京都最古の寺である広隆寺を建立したことで知られる(前号参照)。『天暦御記』は遷都から一五〇年ほど経ったあとの史料だから、書かれた内容が史実かどうかは微妙だが、遷都に秦氏の尽力があったことを窺わせる話ではある。

 しかも、葛野に遷都しても長岡京にあった桂川の港はそのまま使えるから水運の便は保てるし、葛野の東には琵琶湖があり、その水運も活用できる。

 それにも増して、琵琶湖沿いには、桓武天皇が尊敬する天智天皇が営んだ大津京(滋賀県大津市)もあった。

 こうして遷都の年の一〇月に詔を発し、新たな都を「平安京」と名づけ、それまで平城京の北にある平城山の「背」に当たる国でしかなかった「山背国」を「山城国」と改めたのである。

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