■ドイツ宰相の「演説」に使節団の一行は感激!
一行はその後、フランスからベルギーへと移動し、三月九日、ドイツの首都ベルリンに入った。ドイツでの滞在期間は三三日と決して長くなく、使節団も同国にはさほど期待していなかったのかもしれないが、日数とは逆にその成果は大きかった。
当時、ドイツはプロイセンを中心に統一されたばかりの新興国。君主国という面でも日本との共通性があった。時のドイツの宰相はビスマルク(元プロイセン首相)。
一五日に一行は、そのビスマルクの宴に招かれ、演説を聞いた。そこでビスマルクは「ヨーロッパの小国だったプロイセンが大国(イギリスやフランスなど)と対等外交ができるように愛国心を奮って励むこと数十年でほぼその望みをかなえることができた」と語り、使節団一行はかなり感激したようだ。
木戸孝允と大久保利通がその言葉に勇気づけられたとする感想を日記や手紙につづり、『米欧回覧実記』も「この語は甚だ意味あるものにて」と書いている。
その後、使節団は北欧諸国やイタリア、オーストリア、スイス、スペインなどのヨーロッパ諸国を巡って地中海からスエズ運河を通り、シンガポール、香港、上海などを経て明治六年九月一三日、横浜へ帰った。
欧米諸国から多くのものを日本に持ち帰った使節団だが、文明国フランスでも内乱という負の遺産を抱えていることを知り、かつ、ドイツで「鉄血宰相」の熱弁を聞いて、日本も必ず欧米諸国に並ぶことができるという勇気と自信を与えられた。その「勇気と自信」を持ち帰ったことこそが最大の成果といえよう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。