日本に英語を普及させた功労者!“元漂流民”ジョン万次郎の生涯の画像
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 それまでオランダ語が唯一の西洋語だった幕末の日本にアメリカ艦隊を率いてペリー提督が来航したとき、日本で英語を話せる人はほとんどいなかった。

 そこで幕府が白羽の矢を立てたのが元漂流民の中浜万次郎(のちに彼は「ジョン万次郎」と呼ばれた)。

 土佐の漁師だった彼が遭難してアメリカの捕鯨船に命を救われ、一〇年の歳月をアメリカ、さらには捕鯨船員として洋上で過ごしたあと、ペリー来航の二年前の嘉永四年(1851)、祖国に帰りついていたのだ。

 事実上、日本が国を鎖と ざしていた当時、自分の意思ではなかったにせよ、国禁を犯した万次郎は死罪となっても仕方がなかったところ、土佐藩や幕府に厚遇され、重要な外交交渉の通訳を任されるというのだから異例中の異例。

 しかし、ペリー来航の露払いともいえるタイミングでの帰国だったため、攘夷主義者の水戸藩前藩主徳川斉昭は「(アメリカの)計略といえないことはない。中浜(万次郎)も墨夷(アメリカ)に恩義を感じているだろうから墨夷のためにならないことはしないだろう」と、老中阿部正弘に万次郎をスパイ扱いする密書を送った。

 結果、このスパイ容疑などの影響で万次郎が日米交渉の通訳として活動することはなかったが、彼が幕末の日本に多大な影響を与えたのは事実だ。いったい彼は幕末の日本に何を残したのか、その生涯を振り返ってみよう。

 土佐中ノ浜(高知県土佐清水市)で貧しい漁師の次男に生まれた万次郎の乗った漁船が遭難したのは天保一二年(1841)、一四歳のとき。

 漂流して無人島(伊豆諸島の鳥島)に辿り着き、近くを航行するアメリカの捕鯨船(ジョン・ハラウンド号)に拾われ、船長に気に入られた彼は他の乗員とハワイで別れ、そのままアメリカ本土ヘ帰港する船に乗り込んだ。

 ちなみにその頃、彼は船の名を取って「ジョン・マン」と呼ばれている。その万次郎ことジョン・マンは、船長の養子となってマサチューセッツ州フェアヘーブンでともに暮らし、専門学校で数学、測量、航海術、造船技術などを学んだ。

 学費は水夫としてジョン・ハラウンド号で働いた報酬と樽作りのアルバイトで稼いだ金。

 こうして苦学して卒業したあと、別の捕鯨船に乗って世界を航海するうち、次第に望郷の念を募らせる。

 そんな彼が帰国資金を稼ぐために注目したのが、西部開拓時代のアメリカで沸き起っていたゴールドラッシュだった。

 万次郎はカリフォルニアの金鉱で六〇〇ドルを稼ぎ、漂流した船員と別れたハワイへ向かい、嘉永四年一月、事実上、鎖国している日本本土を避け、二人の元船員とともにいったん琉球(沖縄県)へ上陸した。漂流から一〇年が経ち、万次郎は二四歳になっていた。

 その後、琉球国から薩摩藩、長崎奉行と身柄を次々に引き渡され、特に長崎奉行所では揚屋(牢屋)へ収容され、所持品をすべて取り上げられたうえで尋問されたが、キリシタンでないことが確認されると、事実上、無罪放免となって土佐藩に身柄を引き渡された。

 こうして万次郎は翌嘉永五年(1852)七月、故郷の土を踏んだのだ。

 土佐藩でも取り調べが行われたが、その年の一二月、藩から「定小者(軽格の侍)」の地位と扶持米が与えられた。貧しい漁師の次男坊が留学を経て藩に召し抱えられた形だ。

 とはいえ、このまま彼が「英語を話せる元漂流民」として土佐で生涯を終えていたら、歴史に埋もれていったかもしれない。

 しかし、下級土佐藩士の画家で城下随一の知識人とされた河田小龍が、万次郎から詳細な海外事情を聞き出そうと自宅に住まわせたことで状況は一変する。

 小龍は聞き取った話や万次郎に下絵を描かせた挿絵(蒸気機関車他)などをもとに全五巻の『漂巽紀畧』としてまとめ、土佐藩主の山内容堂へ献上したのだ。

 当時、この書が城下で話題になった。藩主に献上されたという話題性の他、ある意味、元漂流民の異国物語という捉え方をされたようだ。

 こうして『漂巽紀畧』と万次郎の存在が世に知られるようになり、かの坂本龍馬も影響を受けたという。

 万次郎の三男の孫、中濱武彦氏は著書『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』で、龍馬が小龍の家に出入りして『漂巽紀畧』を目にしたため、彼がよく口にする海外事情はその本、ひいては万次郎の体験談に依るところが大きいという。

 一方、幕末史の重要人物のみならず、万次郎は幕末史そのものにも影響を与えた。彼の噂が蘭学者の大槻磐渓らの耳に入り、その推薦で江戸へ召喚され、幕府直参旗本の身分を与えられるのだ(このときから故郷の地名を取って「中浜」姓を称す)。

 前述した通り万次郎が日米交渉の際の通訳として表舞台で活躍することはなかったが、条約締結後の批准書交換のため、万延元年(1860)一月、勝海舟を艦長とする咸臨丸に幕府通訳として乗り込むことになった。

 その際、通訳としてはもちろん、航海士としての彼の腕が役立った。咸臨丸が暴雨風に襲われ、艦長の勝が船酔いと下痢に苦しめられる中、万次郎が徹夜で働いていたと同乗のアメリカ海軍士官が語っている。こうして日本人初の太平洋横断成功に万次郎が果たした役割は大きい。

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