映画やドラマの名シーンは誇張!?「武士は馬に乗って戦った」はウソの画像
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 戦国時代の映画やドラマで必ずといっていいほど登場するのが、武士同士が馬に乗って戦うシーン。その象徴が天正三年(1583)の長篠の合戦(愛知県新城市)だろう。

 織田信長が新兵器の鉄砲三〇〇〇挺をそろえ、武田勝頼が無謀にも、そこへ自慢の騎馬隊を突っ込ませて多くの将兵を失い、大敗した戦いとして記憶されている。

 黒澤明(故人)監督の映画『影武者』(1980年公開)で、武田の騎馬隊が敵の一斉射撃によってバタバタと撃ち殺されるラストシーンは衝撃的だ。

 ところが、戦国武将たちは馬に乗って戦っていた――そんな常識が崩れつつある。

 まず、長篠の合戦そのものについても見直しが進み、信長がそろえたという三〇〇〇挺という鉄砲の数にも疑問が投げられている。史料的価値が高い太田牛一(信長の側近)著の『信長公記』(刊本)に一〇〇〇挺と記載されているからだ。

 もちろん一〇〇〇挺とはいえ、ズラリと鉄砲が並ぶ敵陣へ騎馬隊を突っ込ませたら、ひとたまりもない。

 鉄砲の数が通説の三分の一に減っても武田側の被害は甚大になると思われがちだが、映画『影武者』のようなシーンはありえない。

 なぜなら武田勢の多くが馬から下りて敵兵と戦っているからだ。つまり馬上槍を振るって敵陣へ突っ込まなかったと考えられるのだ。

 そこで、元亀四年(1573)、まだ勝頼の父信玄が存命の頃に武田軍が徳川軍を粉砕した三方ヶ原の合戦(静岡県浜松市)でのシーンを参考にしたい。『改正三河後風土記』という史料に

「四郎勝頼が二本の馬印を左右に押し立て、馬より下りて敵を突崩した」とある。馬印というのは戦場で大将の馬の脇に立て、乱戦となっても味方の兵に自分の位置を示すためのもの。これがないと大将がどこにいるか味方に分からないので、左右に押し立てているところまではわかるが、問題はその次。勝頼はわざわざ馬から下り、自分の足で徳川軍へ突きかかって切り崩しているのだ。

 武田軍の活躍を描いた『甲陽軍鑑』は、軍記物ながら史料的価値が見直されており、そこにも長篠の合戦で武田軍の騎馬武者の多くが馬を従者に預け、槍を取って戦っていたと書いている。つまり長篠の合戦でも、敵兵と遭遇したら馬から下りて戦っていたのだ。

 いったい、なぜなのか。

 槍を持って敵と戦う必要上、馬上だと片手綱にならざるを得ない事情があるからだ。もう少し詳しく説明してみよう。

 馬に跨ると両方の手で手綱を掴む必要があり、槍を小脇に挟んで移動しなければならない。

 そこまではいいとしても敵兵と遭遇したら、どうするのか。まず片方の手で手綱を掴んで馬を操り、もう片方の手で槍を振り回して戦わなければならないのだ。『甲陽軍鑑』に「片手綱というはよくよく馬を乗り覚え、巧者になってのこと」とある。馬上、槍を振るって敵と一騎打ちできるのは有名な侍大将クラスか、よほどの技量がないと難しかったという。

 それでは、どうして戦場で馬を使ったのか。その目的の一つが輸送手段。戦場まで連れていってくれる乗り物として使っていたのだ。

 そのことを熟知し、天下取りに活用したのが当時、まだ羽柴姓を名乗っていた豊臣秀吉。天正一〇年(一五八二)六月二日、織田信長が京の本能寺で明智光秀に討たれたのち、備中(岡山県)で毛利輝元の軍勢と対峙中だった秀吉は、世にいう「中国大返し」で京へとって返した。

 こうして本能寺の変の一一日後(一三日)には、山崎(京都府大山崎町)で明智軍を打ち破るのだ。

 この成功が秀吉を天下人に押し上げた重要なファクターであるのは間違いないが、この年の一〇月一八日付で秀吉が織田信孝(信長の三男)の老臣らに宛てた書状の案文(草案)に「(六月)六日まで高松に逗留し(中略)二七里(一〇五・三キロ)ある行程を駆け、七日には一日一夜で姫路城(当時の秀吉の居城の一つ)に入った」とある。

 つまり高松から一昼夜で、およそ一〇〇キロを走破したと言っているのだ。

 大返しの日程については諸説あるが、備中から姫路までの行軍スピードが山崎の合戦の勝敗を分けたといわれる。

 しかも秀吉は主力部隊である騎馬兵らを毛利の勢力圏内から安全な羽柴勢の勢力圏であった姫路まで駆けさせ、彼らの安全を守っただけでなく、馬のスピードに追いつけず、遅れて姫路にやって来た歩兵たちを待つ間、主力の騎馬兵らに休息を与えることにも繋げている。秀吉の大返しは輸送手段としての馬を有効に使った好例といえる。

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