■「応神八幡神」誕生の謎
秦氏は最新の土木技術などをもって財を蓄え、葛野で定住した一族はその後、桓武天皇による平安京遷都のスポンサーとなった。
つまり、渡来氏族ながら秦氏は天皇家や朝廷にとって、なくてはならない存在だった。まず、その秦一族が祭祀する神であったため、宇佐の八幡神は早くから中央に知られていたのだろう。
また、九州北部は大陸への門戸であり、逆に大陸から外敵が襲来した際には前線となる重要な防衛拠点だ。
以上の理由から、その防衛拠点の宇佐に鎮座する「韓国(からくに)の神」が中央から注目され、奈良時代の半ばにはその地位を確立させる出来事が起きた。聖武天皇による東大寺の大仏建立である。『続日本紀』(平安時代初めに編纂された歴史書)によると、八幡神は「我が(大仏建立を)必ず成し遂げてみせよう。そのために(建立に使う)銅を(扱いやすくするために)水と成し、(作業に使う)草や木や土をわが身に混ぜ合わせ、あらゆる障害をなくしてみせよう」と神託(神のお告げ)したという。
おそらく、葛野に進出した秦氏の宗家や九州に残った一族が大仏建立を援助したのだろう。結果、八幡神に朝廷から一品位階のほか、封戸や位田(報酬や領地)が与えられた。
その後、宇佐八幡神託事件などもあって名をあげていった八幡神を重視し、天皇家や朝廷は、やがてその宮司にそれまでの氏族(秦氏)以外の人物をあて、八幡宮をコントロール下に置こうとしたとみられる。
というのも信頼できる一次史料で最も早く八幡神が応神天皇の神霊になったと確認できる弘仁二年(821)当時、朝鮮半島を支配していた新羅との外交関係がこじれ、国際的な緊張関係が一気に高まっていたからだ。
一方、あくまで神話上の話だが、神功皇后は妊娠中に朝鮮半島へ出兵し、高句麗と百済、新羅を服属させ、その際に妊娠していた子が応神天皇だとされる。こうしてこの母子は三韓征伐の英雄となった。
平安時代の初め、九州北部という外敵に睨みを利かせられる場所に鎮座していた八幡神は当時、すでに外敵から国を守るという性格が顕著になっていたとみられるから、平安時代に入り、そこに応神ファミリーの神霊がとって変わることによって「敵国降伏」の要素はより強くなった。
ちなみに、鎌倉時代にモンゴル軍が襲来した際(元寇)、筥崎宮の神門にそのまま「敵国降伏」の扁額が掲げられていた。こうして八幡神は「武神」となっていったとみられる。