■「霊界」に行った妻との再会を強く願ったのか
篤胤が抱く霊界のイメージが織瀬の死と関係していたのは確かだが、そもそも彼は昔から不思議な現象に興味を抱く少年だった。
彼がもともと霊界に興味を抱くタイプでなかったら、『霊能真柱』でその存在を世に示さなかったはずだ。ともあれ国学者としてのみならず、こうして篤胤が霊界の案内人として知られていたからこそ、彼の元には不思議な話が舞い込んできやすくなった。
彼が四五歳のときの話だ。文政三年(1820)一〇月、篤胤の友人で学者の屋代弘賢から天狗に連れられて仙境(俗世から離れた土地のことで霊界もその一つ)へ行き、長い間天狗の使者を務め、この世に戻ってきた寅吉という少年の話を耳にする。
その寅吉が屋代の知人の家にいるというので篤胤は早速会って話を聞くと、寅吉は七歳から一一歳まで仙境と自分の家を行き来していたという。篤胤はその話に興味を持ち、自分の家に寅吉を居候させ、話を聞き取った。その内容を『仙境異聞』としてまとめたのだ。
ところが世間では、篤胤が『霊能真柱』で示した霊界の存在を証明するため、寅吉という少年に自分の説を教えて語らせているという風聞が流れた。しかし、篤胤はあくまで取材対象者として寅吉を居候させているので、その批判は当たらない。
その後も篤胤は不思議な話のコレクターであり続けた。たとえば「今は多摩郡中野村(現東京都中野区)に住んでいるが、じつは別の村に住んでいた者の生まれ変わりで、前世の自分は六歳で死んだ」という八歳の少年の話を聞き、『勝五郎再生紀聞』としてまとめている。
その噂も屋代から聞き、中野村の領主である旗本の多門伝八郎に頼んで少年を呼び寄せたという経緯があった。そうやって篤胤が霊界の話に次々と興味を示したのは、やはり、霊界へ行った妻との再会を願う気持ちが強かったからといえよう。