安藤広重は「実際は旅をしていない!?」浮世絵「東海道五三次」誕生の真相の画像
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 葛飾北斎とともに江戸時代を代表する浮世絵師の安藤広重は「風景画の巨匠」でもある。『東都名所』や『江戸名所百景』で江戸の名所を描き、この他にも多くの風景画を残しているが、なんといっても彼の名を有名にしたのが出世作の『東海道五三次』。

 実際に広重が起点の江戸日本橋から終点の京三条大橋まで歩いて描いた作品としても知られる。

 また、広重は富士山を描いた画集の序文に『富嶽百景』の作者である北斎と比較する形で「余(広重)がまのあたりに眺望したものをそのまま写し取った草稿を清書したもの」と主張する。

 さらに広重が幕末の安政五年(1868)にコレラで亡くなったとき(享年六二)、まだ五歳だったオランダ出身の画家ゴッホが、やがてパリへ出て広重の風景画を油絵で模写し、アルル(フランス)移住後の彼の作品に影響を与えたといわれる。

 しかし、そうした自己評価や評判とは裏腹に、『東海道五三次』は彼が実際に旅した際のスケッチを基に描かれたものではない、さらには、彼の風景画には虚構が入り混じっている――と指摘されるようになった。

 その謎解きの前に、まず簡単に広重の生涯を振り返っておこう。

 彼は寛政九年(1797)、江戸八重洲河岸(千代田区)にある定じょう火び消けし屋敷で、その同心・安藤家の長男に生まれた。定火消というのは幕府直属の火消し組織のことで、父の源右衛門は津軽藩家臣の田中家から安藤家へ養子に入った人物だ。

 広重の幼名は徳太郎で、一〇歳の頃に早くも画才を現し、『三保松原図』(静岡市)などを描いたという。

 一三歳のときに両親を相次いで亡くし、父の跡を継いで定火消同心となったが、数年後に浮世絵師を志し、歌川豊広に弟子入り。

 当時、定火消同心の収入は三〇俵二人扶持しかなく、得意の浮世絵で生活の足しにしようとしたのが弟子入りの動機だとされる。

 やがて師匠の豊広から一字もらって「歌川広重」の画号を名乗った。ちなみに一般的には実家の姓を取って「安藤広重」と呼ばれるが、画号である広重との組み合わせでいうなら前者が正しい。

 その後、彼は「一幽斎」「一立斎」と号を改め、三五歳で風景画家のスタートといえる『東都名所』を描くに至るが、その間、定火消同心の職は親戚に譲って隠居。浮世絵で生計を立てるまでになっていた。

 そうして彼が風景画家として名が売れ始めた頃、東海道を旅して例の五三図の浮世絵(実際には起点の日本橋と終点の三条大橋を含むので計五五図)を描いたというのが通説だ。

 明治の浮世絵研究家である飯島虚心が記した歌川一門の伝記の「歌川広重」の項に

「天保の初年、広重(が)幕府の内命を奉じ京師に至り、八朔御馬献上の式を拝観し、細かにその図を描きて上る」とあるからだ。

 彼が幕府の命で朝廷に御馬を献上する一行に加わって上洛し、その際、東海道中をつぶさに観察して描いたというわけだ。

 御馬献上の儀式は毎年八朔の日(八月一日)に朝廷で行われる行事のために将軍家が関東一円から駿馬を選んで献上するもので、重要な行事である。

 また、『東海道五三次』のうち、「藤川宿」(愛知県岡崎市)では、馬と付き添いの武士らの一行に対し、町人らが下座するシーンが描かれ、これが御馬献上の一行を描いたものだとされる。

 つまり、広重自ら、その一員である御馬献上の一行が宿場を通る際の情景を描いたことになる。

 ところで、歌川広重伝で虚心はこの上洛を天保初年だとしているが、今ではより正確に、天保三年(1832)、広重が三六歳のときのことだとされている。

 というのも、空前の大ヒットとなる『東海道五三次』の序文に天保五年という出版年が記されており、「御油宿」(愛知県豊川市)の絵の中に「一立斎」の文字があって、天保三年に彼が画号をそう改めているからだ。

 つまり、その年に彼が上洛し、翌天保四年の一年かけて全五五図を完成させて天保五年に出版――そう考えるのが無難だからだ。

 問題は虚心が記した通り、本当に広重は天保三年の御馬献上のための一行に加わって上洛したかどうかだ。

 これは、三代目歌川広重が語った話がベースになっているが、三代目は明治に活躍した浮世絵師(1842~1894年)。広重研究の基本本史料といえる『安藤家由緒書』に上洛の記載がなく、まずそこが疑いを生じさせた。

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