死者520人、負傷者4人……。
単独の航空機事故としては史上最多の犠牲者を出した大惨劇は、日本で起きている。

だが、公式発表されたその事故原因には、不可解な部分が多い。
まるで、国家が何かを隠蔽するために、無理やりに事故原因をでっち上げたようですらある。

日本航空123便墜落事故。
それは、陰謀論が飛び交う、ひとつの未解決事件なのだ。



1985年8月12日18時12分、日本航空機123便は、羽田空港を大阪に向けて離陸。
お盆の帰省ラッシュということもあり、機内には500人以上の乗客が搭乗していた。

離陸から約12分後、異変が発生。

突然、後方で「バ~ン!」といった大きな音がした。
機体にトラブルが起きた可能性が大きいと考えた機長らは、羽田空港に戻ろうと旋回を試みた。

ところが、それは極めて困難だった。
なぜなら、同機は油圧系統の故障で、舵を失っていたのだ。

すでに、123便は絶体絶命の危機に陥っていた。
機体は前後に、また頭を横に振りながら8の字を描くように、激しく揺れた状態で飛行を続けた。

コックピットでは、左右4基のエンジン出力の増減により、機体をある程度コントロールしようという必死の操作を行っていた。

自らの意思で進路を定められない123便は、東に向けて迷走。
そして、山梨県大月市付近で360度旋回しつつ、一気に急降下。
そして、今度は北向きに、不安定飛行を続けた。

「これはもう、ダメかもわからんね……」
事故後に現場から回収されたボイスレコーダーに残っていた音声によると、このあたりで機長は、そう呟いている。

そして、そんな絶望的状況のなかでも、機長らが墜落を避けようと操縦を続けたことは、このボイスレコーダーが証明している。

だが、それも虚しく、123便は群馬、埼玉、長野の県境にまたがる三国山の北北西およそ2・5㎞の地点の尾根に、機首から墜落。
その衝撃で機体は大破した。

墜落と同時に、ほとんどの乗員・乗客が即死したと見られる。
犠牲者の中には、『上を向いて歩こう』で知られる歌手の坂本九、宝塚歌劇団で、黒木瞳、真矢みきらと同期にあたる女優の北原遥子ら著名人、中埜肇・阪神タイガース球団社長(阪神電気鉄道専務取締役)、浦上郁夫・ハウス食品代表取締役社長、住銀総合リース副社長ら財界人も含まれていた。

一部報道機関が「日航機123便がレーダーから消えた」という第一報を伝えたのが19時過ぎのことで、墜落したのは18時56分頃のことだった。

だが、事故現場に救助の手が差し伸べられるまでには、長い時間がかかった。
自衛隊が現場に到着したのは、翌朝だったのだ。

ここで奇跡的に4人の生存者が発見された。
4人全員が女性で、いずれも機体の後部の座席にいた乗客だ。
なお、彼女らの証言によれば、墜落直後には、もっと多くの生存者が存在したと言われているのだ。



明確な答えが出ていない2つの謎を検証する

この大事故は、大きな謎を残している。
その中でも、最大にして最重要といえるのが、「事故原因は何か?」という点だ。

もちろん、これに関しては、公式に発表されている。
運輸省航空事故調査委員会(以下=事故調)は、事故発生の2日後から事故現場に入り、調査を開始した。
これに際し、アメリカ国家運輸安全委員会の事故調査官らも顧問として迎え入れられた。

そして約2年後、事故調は調査報告書を公表。
事故原因には、次の3つが考えられるとしている。

(1)圧力隔壁の損壊
飛行中に事故機の後部圧力隔壁が損壊、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に漏れ出した。
これに伴い機体尾部と垂直尾翼が破壊された。また、4つの油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出。機体は操縦機能を失った。

(2)金属疲労と亀裂
圧力隔壁の損壊は、接続部の金属疲労により亀裂が生まれ、隔壁の強度が低下。
そのために、与圧に耐えられなくなったことで生じたと推定できる。

(3)過去のしりもち事故
当該機は1978年に「しりもち事故」を起こしている。
その際、ボーイング社による修理が不適切だったこと。
また、点検で、これらの異常を発見できなかったことも事故原因の一つである。

だが、この報告書には、不可解な点が多くあることが指摘されている。

まず、疑われているのが、報告書内で起こったと推定されている「急減圧」の存在だ。
航空機には、地上と同じ気圧を保つように圧力が加えられる。
これを「与圧」と呼ぶ。
そして、機内と外部との圧力を分ける壁が「圧力隔壁」だ。

それが壊れた部分から客室内の空気が流出し、機体尾部と垂直尾翼、さらに4つの油圧パイプが壊れて操縦機能が喪失。

また、空気の流出により、機内には「急減圧」が発生したと報告書では推定されている。

ところが、この部分が生存者の証言と矛盾しているのだ。
証言によれば、急減圧発生時に起こるといわれる現象が、実際には起きなかったという。

たとえば、急減圧後の機内は、気温がマイナス40度まで下がり、空気が膨張する。
それが風になって機外に流れ出す。

このとき、大きな風の音がする。
ところが生存者は、異常発生後の機内温度の低下や、強風が吹いたことも否定した。
そればかりか、ボイスレコーダーには、機長らの急減圧に関するやり取りが記録されていない。

これらの事実を受け、今日では、遺族や航空関係者、ジャーナリストの間には「急減圧はなかった」という見方が強まっている。

日航内部にも、「急減圧はなかった」という説を支持する団体もある。
独自に真実の事故原因を追究すべく活動している日航乗員組合連絡協議会が、急減圧説を否定するリポートを発表している。

ならば、事故調は再調査をすればいいのだが、そうした動きは皆無だ。
遺族たちは再三、事故原因の再調査を求めているのだが、それが叶う様子はない。

いや、そればかりではない。

なんと99年11月には、この事故に関する全資料が廃棄処分されてしまったのだ。
まるで何か都合の悪いことを隠すかのように……。

なお、破棄された資料の中には、非公開だったボイスレコーダーの録音テープが含まれていた。

その後、このテープのコピーが流出し、メディアで公開されたため、いまではインターネットでも簡単に聴くことができるが、当時、なぜ公開されなかったのか?

このような隠ぺい工作とも言える政府の対応から、事故の背景に何かしらの黒い疑惑が存在していたと考えざるを得ない。

画

〈 事故概要 〉

「日本航空123 便墜落事故」とは、1985 年(昭和60 年)8月12 日18 時56 分に、東京(羽田)発・大阪(伊丹)行123便(ボーイング747SR-46)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根に墜落した事故である。
乗員・乗客524 人のうち、死亡者数は520 人、生存者(負傷者)は4 人。
航空機事故としての死者数は、2014 年2 月末の時点で、1977年3月27日に発生した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」(滑走路上で2 機のボーイング747 が激突。583 人が死亡)に次いで世界第2位。
単機の事故としては世界最多である。
事故の際、コックピットでは機長昇格訓練のため、佐々木副操縦士が機長席に座って操縦を担当。高濱機長は副操縦士席で佐々木副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。
事故機は、1978 年6月2日、羽田発・伊丹行き115 便として伊丹空港に着陸しようとした際に、機体尾部が滑走路と接触し、中破する事故を起こしている。事故調査委員会は、これが事故の遠因だと結論づけている。


123機は、オレンジ色の飛行物体と激突した!?


123便の垂直尾翼の破壊は、急減圧が原因ではないとすると、真っ先に考えられるのは、外的原因だ。
つまり、なんらかの別の飛行物体との衝突である。

ジャンボ機の機体は、鳥やラジコン飛行機がぶつかって壊れるようなヤワな構造ではない。
そもそも旅客機が水平飛行する高度まで、それらが浮上するとは、普通では考えられない。

ほかの航空機と激突したのであれば、もっと大きな事故となっていただろう。
となると……。

実は後年、犠牲者の一人が123便の飛行中に窓越しに撮影した、なんらかのかオレンジ色の物体の写真が遺族により公開されている。

さらに、事故後に発見された垂直尾翼の破片に、同じくオレンジ色の何かが突き刺さっていたことが確認できる写真も存在する。

つまり、"オレンジ色の何か"が、123便の垂直尾翼と接触したと考えるのが自然だろう。

その正体として、可能性が指摘されているものに、自衛隊の無人標的機がある。
無人標的機とは、攻撃・射撃訓練の際に標的となることを前提とした機体のことだ。

確かに、それが原因なら、国家が隠そうとするのもわからなくはない。
ただ、標的機はレーダーにも映るため、上空で旅客機と、たまたま衝突する確率というのは著しく低い。

となると、偶然の事故ではなく、何者かが意図的に攻撃したという可能性が高くなってくる。

ここで浮上してくるのが、「米軍のミサイルによって撃墜された」というアメリカ陰謀説だ。

注目したいのは、事故調が発表した事故原因である。

ここでは、ボーイング社に、たまたま123便の機材と、そのメンテナンス状況について問題があったとされている。
もし、自衛隊の標的機が原因だとして、それを日本政府が隠蔽したのであれば、ボーイング社が非を認める必要はない。

同社は民間企業だが、その商品に欠陥があるともなれば、アメリカ全体の国益に関わる。つまり、「ボーイング社=アメリカ政府」と見るべきだろう。

となると、やはり、なんらかの形でアメリカ側に原因がある、と考えることはできないだろうか? もっと大きな何かを隠すために、あえて最小限の責任を認めたという見方だ。

その反面で、日本は「ボーイング社=アメリカ政府」にとって上得意客であるという側面もある。
得意客の機嫌を損ねないように、自分たちが最も傷つかない形で譲歩し、政治決着を遂げた、という見方もできなくはない。

ただし、これらの説を取るのなら、新たに「なぜ、アメリカは、わざわざ日航機を撃ち落としたのか?」という疑問にぶち当たる。

ここで、この時代の日米状況について、おさらいしておこう。
当時、合衆国大統領は外交に関して強硬策を貫き、軍事的にも「強いアメリカ」を打ち出したロナルド・レーガンだ。一方、日本の内閣総理大臣は中曽根康弘である。

米国経済は、不安定な状況に陥っていた。ドル高が続き、莫大な貿易赤字を抱え、財政赤字も深刻だった。

一方で円は強く、これはアメリカにとって好ましい状況でなかった。
当然ながら、現状の打開策が求められた。

そのための、いわゆる「プラザ合意」は、日航機墜落事故の直後の出来事だ。
各先進国の財務担当大臣が集まり、協調的なドル安を図ることで合意したのだ。
これは特に、円高ドル安に誘導する色合いが強かった。

この背景を踏まえ、前述の疑問に対し、「日本にプラザ合意を迫るアメリカが、日航機をミサイルで狙った」との推論もある。
また、財界人が複数犠牲になっていることから、「プラザ合意に反対していた財界人を狙った」という飛躍した異説も飛び交った。



大きな波紋を呼んだ元米国軍人の衝撃暴露


アメリカのミサイル撃墜説は陰謀論の域を出ないが、それに信憑性を持たせるのが、事故に残された第二の謎だ。

なぜ、自衛隊は事故現場に、すぐに到着しなかったのか?
これについては、元米国軍人のマイケル・アントヌーチ氏の証言について触れる必要がある。
同氏は事故から10年後にメディアに露出し、驚くべき証言をした。

123便が墜落した日、飛行中の駐日米軍の大型輸送機・C130は、123便がレーダーから消失したのを把握。
これを受け、米軍横田基地はC130に捜索を命じた。
そして19時過ぎ、つまり事故直後に上空を旋回飛行することで、墜落した123便の残骸を発見する。

救助作業のために、キャンプ座間からヘリが飛来。
ヘリでは、乗組員たちを墜落現場まで降ろす準備をしていた。

ところが、横田基地から「日本の自衛隊がすぐに来るので、退去せよ」との命令が下る。そこで、C130やヘリは命令に従い、基地に戻った。

アントヌーチ氏が基地に戻ると、上官は「メディアには何もしゃべるな」と口止めした……。


以上が、おおまかな要点だが、この証言は自衛隊の発表とは大きく食い違っている。

前述のように、現場に自衛隊員が降り立ったのは、事故から13時間以上も経過したあとだった。
発表によると、救助が遅れたのは、現場の特定に時間がかかったからだとされている。

はたして、どちらが正しいのだろうか。

ちなみに、生存者の一人は、「墜落直後にヘリコプターの音を聞いた」と証言している。

一方で、自衛隊側は墜落直後に米軍ヘリが事故現場上空を飛んでいたことを認めていない。
上官による「何もしゃべるな」という指令も、なんともキナ臭い。

このアントヌーチ証言自体を疑う意見もある。
だが、仮に嘘だとしても、生存者証言と、自衛隊の見解とが矛盾していることだけは間違いない。

自衛隊の救助遅延の理由として、自衛隊と警察の上層部同士で主導権争いが起き、一晩を要したというのが代表的な見方だ。

しかし、一方で「事故現場で証拠隠滅が図られ、日米政府間で政治決着に向けて交渉がなされていたから」という見方もある。
事故直後に撮影されたものらしき写真から、事故機以外の飛行物の破片らしきものが多数、見受けられるのだ。

しかし、その破片の存在は報告書内では一切触れられていない。
事故から自衛隊到着までの13時間、この謎の破片は現場から何者かに持ち去られてしまったのだろうか。

もし、これがアメリカ軍のミサイルの破片だったとしたら……。

おそらく、この事故の真実が明らかになることはないのだろう。
ただし、国家がこの惨劇に対し、不誠実な態度を取り続けていることだけは、動かし難い事実なのだ。

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