人生に役立つ勝負師の作法 武豊
「思い出の10頭」に入る意外な馬



7月8日、エイシンワシントンとカミノクレッセの2頭が亡くなりました。

1996年の「スプリンターズS」で、優勝馬フラワーパークとゴール前で激しくたたき合い、2センチ差で涙をのんだエイシンワシントンには、一度も騎乗機会がありませんでしたが、アンバーシャダイ産駒のカミノクレッセには、3度騎乗して2勝。
その後もライバルとして何度も同じレースで顔を合わせていました。

なかでも記憶に残っているのは、92年に行われた「天皇賞・春」です。

メジロマックイーンとのコンビで、栄冠を勝ち取ることができましたが、このレースで2着に入ったのがカミノクレッセと田島信行騎手のコンビでした。

競馬は1着がすべて。スポットライトを浴びるのは、優勝馬だけで、あとは2着もシンガリ負けも同じようなものです。GIをいくつ勝ったかで引退後の生活もまるで違ってきます。

だからこそ、僕ら騎手もパートナーとなった馬には一つでも多く勝たせてあげたいし、どんなレースであれ、常に勝つことだけを目指して、日々、技術を磨いているのです。
ただ、日本中の誰もが知っているスーパーホースにはなれなかったけど、騎手の、関係者の、ファンの心に残るバイプレイヤーたちもたくさんいます。

亡くなったエイシンワシントンも、カミノクレッセもそんな一頭。彼らがいたからこそ優勝馬はより輝きを増していることを、競馬の歴史はそうして作られてきたものだということを決して忘れてはいけないと思っています。

長く騎手を続け、いい馬にたくさん騎乗させていただいてきた僕の中にも、そんな馬たちがいます。

父スイフトスワロー。母スイートナイル。

美浦の吉野勇先生が管理していたレオテンザンもその中の一頭です。

当時、関東の馬が関西のレースに出走するとき、馬の調教は関西の調教師に委託されるのが普通でした。

「菊花賞」を目指し、「京都新聞杯」に出走することになったレオテンザンを栗東で預かることになったのが、デビューしたばかりの僕をかわいがってくれた庄野先生だったことから彼との縁がつながりました。

吉野先生の顔すら知らなかった新人の僕が乗れたことは、運があったとしか言いようがありません。前週、トウカイローマンとのコンビで初の重賞制覇(京都大賞典)を果たし、勢いにも乗っていました。

あれよあれよという間の逃げ切り勝ちで、レオテンザンは「菊花賞」への切符をゲット。僕もこの勝利で、新人騎手がGIに乗るためのノルマ(30勝)をクリアし、晴れて、吉野先生から直接、「菊花賞」への騎乗依頼をいただくことができたのです。

忘れられない馬を3頭挙げてくださいそう聞かれたら、レオテンザンの名前は思い浮かびません。

でも。10頭挙げてくださいと聞かれたら、間違いなく候補にあがる一頭です。


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