約150年に及ぶ戦国時代。数多くの大名や武将がいたが、そんななかで飛び抜けて個性的な性格や行状を行なった人物を紹介してみよう。

江戸時代に流布していた戦国三大愚人とは?

江戸時代に書かれた軍記物のなかでは、細川政元、大内義隆、今川氏真が、戦国期の三大愚人にあげられている。

戦国期を応仁元年(1467)から慶長20年(1615)の約150年とすると、あげられた3人は、活躍した時期も違い、実際は有能な面もある歴とした大名や権力者なのだが、暗黒面がイタすぎるため、後世においてこういう評価が下されたのだろう。

細川政元は、戦国初期に活躍した人物。室町幕府を支える幕府管領家のひとつ細川京兆家の嫡男として文正元年(1466)に生まれた。応仁の乱を起こした畠山政長と対立したがこれを破り、足利義澄を傀儡として将軍に就かせたことで、幕府の権力を掌握した。

そのため「半将軍」とまで呼ばれるほどであった。外交・内政に辣腕を振るった政元だったが、いつしか政務を疎かにして修験道に没頭するようになっていった。修験道とは苛烈な修行を行ない人智を超えた能力を持つことを目的とする。現代的にいえば、仙人とか魔法使いになるための修行に邁進したということ。

そのうえ政元は生涯妻帯しなかったため、嫡子がいなかった。そのため3人の養子を得たが、後継者を指名していなかった。そのため3人の養子たちやその生家が、跡目を巡り激しい権力争いを行なうようになる。

ついには養子のひとりから刺客を送られ、暗殺されてしまった。政元の死後、養子たちの争いはエスカレートし、各地の有力守護大名を巻き込んで、騒乱が拡大。戦国大名が誕生する萌芽となっていった。

どう考えてもハタ迷惑な人物である。権力闘争に明け暮れた人物が、その権力を放棄して世捨て人になりたくなることもあるだろう。しかし、世を捨てるなら、きちんと身の回りを整理し、迷惑がかからないようにするのが常識であろう。政元は権力者としての責務を放棄したことから、後世の人々から愚人と悪しざまに言われたのだ。

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