後世に残る熱烈な逸話を残した戦国武将たち


戦国武将に男色文化が根付いた要因としては、

① 戦場には女性がおらず、性的な相手が男性しかいなかった。
② 男色は「風流の花」と呼ばれた崇高な趣味と捉えられていた。
③ 男色により出世のきっかけとなる。

の3つが考えられている。これには反論もあるが、そうした面があったことは間違いない。

男色を好んだと、はっきりと文献に残っている武将として特に知られているのが、武田信玄だ。なんと信玄は20代の頃、恋人の春日源助に他の男と浮気をしたと疑われ、慌てて詫び状を出した。

「浮気をしたと誤解しているみたいだけど、手は出してないから。浮気心は起こったけど本当に潔白だよ。神仏に誓うから許して」(意訳)

という内容。春日源助は高坂弾正昌信の初名だといわれているが、山本勘助では? という説もある。昌信にしろ勘助にしろ、いずれも武田家を支えた二十四将のひとりとして知られる有名武将だ。

大内義隆は戦国期の三愚人のひとりとして後世、非難された人物。その義隆の恋人であったのが、陶晴賢。こちらも義隆から晴賢に送った熱烈な恋愛模様を記した文章が残っている。

義隆が若い晴賢とラブラブな関係になったが、晴賢は約40キロ離れた自領にいた。恋人に会いたい一心で、中間地点にあった寺をデート場所にして、夜中に逢瀬を楽しんでいたという。その上、晴賢が寝ている間に館まで帰ってしまったことを詫びる歌を送るなど、バカップル丸出しのエピソードが残っている。

義隆にはもうひとつの逸話が残っている。義隆は、来日したフランシスコ・ザビエルと面談したことがあったが、ザビエルが「男色は悪魔の所業」と唱えたため、激怒して追い出したというもの。敬虔なカソリックの教えを広めようとした宣教師たちにとって、戦国武将たちが男色に耽けるさまは、あまりにもありえない出来事だったのだ。

この逸話からもわかるように、義隆は晴賢以外にも寵愛した若武者が数多くいた。そのうちのひとりが、毛利元就の三男・小早川隆景。隆景は幼少時には美少年で知られ、主筋であった義隆のもとを父子で訪れた際、お手つきになったという。

伊達政宗も男色のエピソードには事欠かない武将である。

正宗の相手になったと記録に残っているのが、二代目片倉小十郎を名乗った片倉重長。父の初代片倉小十郎は、正宗の傅役として幼い正宗の教育をし、政宗が家督を相続した後はその右腕として辣腕を振るい、豊臣秀吉に「日本三大陪臣のひとり」とまで呼ばれた有能な武将。その嫡男である重長に政宗は手を付けていたのだ。

このふたりの逸話として伝わるのが、大坂の陣出陣前の出来事。重長にとっては病に臥している父に代わり出陣する大坂の陣が初陣となる。片倉の名を汚さぬためにも、先鋒となることを望んだ。出陣の準備に大忙しの政宗を廊下で捕まえ、先陣を賜ることを願い出た。

それを聞いた政宗は、重長に濃厚なキスをし、

「お前以外の者に誰が先陣をやらせるものか」

と涙を流しながら語ったという。47歳の政宗と31歳の重政、立派なオトナ同士が人目もはばからずにキスをしたのである。こんなシーンが大河ドラマなどで再現されたら、視聴者はドン引きすること間違いないだろう。

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