開戦当初は破竹の快進撃を続けた日本軍だが、1942年6月のミッドウェー海戦での惨敗を機に、戦局は悪化の一途をたどっていく。物資は枯渇し、前線の兵士の疲労は極限に達していったが、陸海空戦場で、先人たちは「不屈の闘魂」を見せていた!!

血戦その①沖縄戦「首里戦線」の死闘
砲弾100発で1人殺せばよい!!米軍"鉄の暴風"下での不屈の闘魂


サイパン、硫黄島を落とした米軍は、日本の南端、沖縄に迫っていた。

硫黄島の陥落直後の1945年3月末から、米軍は沖縄上陸を開始。日米の戦力差は、"巨象とアリ"ほどの絶望的な開きがあった。

米軍は戦艦10隻をはじめ巡洋艦、駆逐艦計30隻以上、上陸部隊を乗せた輸送船などを含め180隻近い巨大戦力を沖縄に投入してきた。加えて、空母、軽空母合わせて16隻という機動部隊が後方に控えていた。対する日本の艦艇は皆無であり、航空戦力もごくわずかであった。

米軍は上陸前に猛烈な空爆及び艦砲射撃を浴びせた。その投下火力は沖縄戦を通して、砲弾6万発、ロケット弾2万発、手榴弾に至っては40万発近くが使用されている。米軍の砲兵司令官は、「砲弾100発で1人殺せばよい」と言い放ったというからすさまじい。この圧倒的な米軍の火力は、「鉄の暴風」と呼ばれている。

当初、日本軍は積極策をもって米軍を迎え撃つ作戦を立てていた。しかし、沖縄を守備する第32軍(牛島満中将)は、主力として期待していた精鋭の第9師団を、直前に台湾防衛のために引き抜かれていた。これで兵力は予定の3分の2となったため、牛島中将は参謀らと諮り、米軍を上陸させてから洞窟陣地や天然の要害を利用して討つ"ゲリラ戦"に変更を余儀なくされた。

「鹿児島出身の牛島中将は、立案にあたり、郷土の戦国大名・島津氏が得意とした"捨て奸"を意識したと言います。捨て奸とは、本隊が退却を繰り返すことで敵を自陣に招き入れ、事前に潜ませていた伏兵に奇襲させるというものです」(軍事ライター・黒鉦英夫氏)

多勢に無勢、県民にも大きな犠牲を強いた沖縄戦は3か月に及んだが、日本軍は「首里戦線」と呼ばれる局地戦で"人間離れ"した戦闘を演じている。

第32軍の司令部は、首里城近くの地下壕の中にあった。1945年4月1日、沖縄本島中西部・北谷町の海岸に米軍部隊が上陸してきた。日本軍は戦力が乏しかったため、水際作戦(敵上陸時に猛攻を与える)を放棄したため、米軍は無血上陸した。米軍は飛行場ほか、上陸地点周辺地域を確保すると、日本軍の司令部のある首里を目指した。

北谷から首里までは約10キロ。この間に沖縄戦で最も苛烈な戦闘が繰り広げられている。首里から4キロ北の「嘉数の戦い」では、第63旅団隷下の独立歩兵大隊が奮戦。昼間、米軍に陣地を占領されても夜陰に乗じた決死隊で斬り込み攻撃を敢行し、再び陣地を奪い返すなど、迫撃砲を武器に米軍に出血を強いた。首里の西側まで米軍が迫ると、「シュガーローフ(現在の那覇市安里)の戦い」が展開された。

「同地では米軍は多大な出血を強いられた。これは、あの有名なノルマンディー上陸作戦で、米軍が上陸を担当した激戦地"オマハビーチ"の戦闘を上回るもので、米軍史上、特筆すべき苦闘でした」(軍事評論家・古是三春氏)

同地での日本軍の勇猛果敢ぶりはすさまじく、米海兵隊は、2500名以上が戦死し、1300名余りが戦闘恐怖症にかかったという。首里の北面(石嶺)では米軍の2個中隊をほぼ殲滅している。

約50日間続いた「首里戦線」の戦いで、日本軍は米軍の侵攻を「1日1メートル」に食い止めたと言われる。

「劣勢の局地戦では奇跡でしかなく、いかに日本軍がゲリラ戦闘に長けていたのかがわかる」(軍事評論家・神浦元彰氏)

米軍は日本軍のこの奮戦ぶりを後年、「歩兵戦闘の極み」と評価している。

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