主宰されている「大駱駝艦」での舞台には、そういった子供時代の原風景やご自身の中の妄想みたいなものが、いいかたちで息づいているような気がします。

そうですね。うちの踊りだから出来るということもあるでしょうしね。枠の外だからこそできる踊り。日本舞踊じゃそうはいかないだろうと思うんです。そういった枠のないところで、ある種の妄想力を発揮して、枠からはみ出していいんじゃないか。
ある種の“現代社会性”みたいなものはあんまり持ちたくねえなあ。でもあまりそんな風に枠の外で生きていると、下手したらお巡りさんにつかまるし、病院連れて行かれるかもしれないしね。ギリギリのところで描く、綱渡りのようなエロティックな感じを表現したい。ひりひりとしたエロティックさとヴィヴィッドな色彩の、そういうところにいつも自分をおいていたいですね。それと通底している、という意味ではたまに賭け事なんかもしますよ(笑)。そんなとこに通底させても仕方ないんだけれども、麻雀なんかも年に2.3回はやります。

賭け事のヒリヒリ感、ですか。舞台人としてのイメージが強いので、麻雀を嗜まれていらっしゃるのは意外でした(笑)。麿さんにとっては、踊りは、お仕事でありながらお仕事でない、といった感じなのでしょうか?

基本的に、これは仕事、これは遊び、という区分けはないんですね。子どもが遊んでいるような気持ちでやっていることに、一応カッコつけて「命がけだ!命がけの遊びだ!」なんて言ってみますけれど。
徹底的に「遊びをせんとや生まれけん」という開き直り方をしつつ、そのしっぺ返しがいつ来るかとは思いながらやってますが、もう年を重ねましたからそれでもいいんです(笑)。
自分としては、なんなら野垂れ死にでもいい、っていうくらいの想いがあるんですが、それを若い人に伝授するのは難しいですね。「野垂れ死にも一つの踊りだ! 物乞いだって芸がいる!」というような、想いは持っています。
インドのサドゥ(※)じゃないですけど、爪伸ばして20年とか、髪を伸ばして30年とか、。まあ向こうはそういった文化、枠組みがあるから成立するんですけど、日本でやってるとなると、まあ、キワキワな人ですからね。

(※)インドのサドゥ
サンスクリット語、もしくはパーリ語で、ヒンズー教におけるヨガの実践者や 放浪する修行者の総称。



若かったころの踊りに対する気持ちと今年齢を重ねてからの気持ちに変化はありますか?

若いころは筋肉とか体力に任せて“強迫”と”こけおどし”のような、そういったものに行きがちでしたね。肉体だ!という観念で踊っていた。けれど、年齢を重ねて体力がなくなってくると、引き算足し算をして、別の武装の仕方を考えないといけない。芸事ではよく言われることだけれども、”隠れていく”ということですね。世阿弥のいう「秘すれば花」ですか。それがひとつの発見ですね。
若いときは若い時の、”迫りくるエロス”といったようなものはありますが、そういった近視眼的な見方ではなく、引けばより拡がる。そういったことがわかってきたのかな。世界を壊していく! という勢いだけで迫っていくよりも、もうちょっと引いて世界を見る。地球を見る。宇宙を見る。それを抱えられるくらいの距離感をもっていると、それが逆に肉薄することになるんじゃないだろうか、とも思います。無駄な力を使わずに、最低限の力でいかに効力を発揮するか。そんなことは物理の世界じゃみんな当たり前にやってるんでしょうけどね。それを舞台の上で、どう見せるか。どこを叩けば一気にダーーーっと壊れていくのか。外すことも多いですが(笑)。
半分地下にもぐっているような部族、といった意識はありますよ。どこかで闘っている、という気持ちがあるんでしょうね。

 

 

 

 

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